「No」と言えない文化

今の勤め先に来て強く感じるのは、「No」を言わない文化の存在だ。マックス・ウェーバーのいうところの官僚的組織では成員が「No」を言わずに全員が粛々と仕事にかからないと組織が維持できない。だから、こういうのは上意下達を基本的な仕組みとする大きな組織では当たり前。おそらく典型的、標準的な日本の大企業なのかもしれないと想像するのだが、いままで小さな組織でわがままを言ってきた人間にとっては、この基本原理は辛く感じられることが多い。

以前の勤め先では、調査の仕事を個人で取ってきて、あるいは会社が請け負ってきた仕事に割り当てられて、それらの委託仕事数本を同時並行でこなすのが仕事のスタイルだった。一人ないし数人の単位で仕事は進むので、自分自身が裁量をする範囲は小さくない。やりたくない仕事はやらない、上司の嫌な命令、クライアントの分かっちゃいない指示は聞かないということを平気で(というのは少し言いすぎだとしても)やっていた。正確には「頑張って」我を通していた。それでも、それなりにこちらのやり方を気に入ってくれるリピーターのお客さんはいるし、売り上げはそこそこに上げているので会社は文句言わないし、こうなると「仕事を断れる宮仕えは楽ちんでいいや」ときたもんである。

こういう人間が典型縦割り型組織に入り「『No』と言わない日本」を感じるときは辛い。体がいやいやをする感じで、「言われたことをやる」がちゃんとできるようになったのは2年前ぐらい、中途入社4年目ぐらいからじゃなかっただろうか。「『No』と言わない自分」であることが自分自身の生きていく上でのビジョンと相容れないということなのだろう、ひどく耐えられないのである。まさに歯車となってしまう自分自身がイメージされてしまい、不幸を感じてしまう。

ところが、そんな場所で日常を送っていると次第に分かってきた。「No」と言わないように見えて、いや表向きは実際に「No」と言わずに、しかし実質的に「No」というような振る舞いをしている人がちゃんといる現実がである。これが適応ということだろうかと僕などは驚いたわけだが、そういう高等技を身につけて、自分を組織に見合った方法で主張している人が何人もいる。そんな組織適応型コミュニケーション能力を身につけた人々はけっこう会社の中枢にいて、会社自体を動かす役回りを担っているのだ。考えてみれば、それはそうだ。そういう自覚的な個人がいなければ、組織は環境に適応していけないはずなのだから。

こうした事実を見ていて僕自身がよい勉強になったのは、要はやりようだということだ。実を取るためにスタイルに拘泥しない柔軟さ、精神的なタフさを身につけていれば、企業の中でも自分を主張することはできる。ところが、「俺の持ち味は直球勝負しかない」といった硬直した自己規定ありきだと、そうはいかない。官僚的組織はそんなところだ。

でも会社を構成するマジョリティはほんとに「No」を言わない人たちであり、そういう人たちの存在も立派に組織を支えているのだけれど、こっち側の人たちと付き合うのは個人的には未だに「ノー、サンキュー」なのである。上に対して「No」を言えないがゆえに、とんでもない仕事を引き受けてくる上司の下で仕事をする部下はたいへんである。ということがよく分かったというのが、僕の社会勉強の結果で、そんなことを40代後半でしているワタクシは相当におめでたい人物だと自分でも思う次第だ。