パラレル・ワールド

SF小説でまとまって数を読んだのは子供の頃読んだ小松左京星新一ぐらい。アーサー・クラークもアイザック・アシモフも、読んだことがない。というぐらいのSF読者の僕だが、昔からパラレル・ワールドものにはとても惹かれる。例えば小松左京の『戦争はなかった』だとか、最初の方しか読んだことがないが、平井一正の『幻魔大戦』だとか、あるいは村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とか。別の世界にいるもう一人の自分という発想は、人と世界の持つ可能性を柔らかなフィクションの方法で前向きに支持しているような気分にさせられ、物語の筋立ての如何に関わらず夢を感じてしまう。

観たのはちょうど十年ほど前だが、イギリスの映画に『スライディング・ドア(Sliding Doors)』*1という作品があった。ニューヨークに住んでいたときに地域の図書館で借りて観た、あまりお金をかけているとは言えないマイナーな作品だ。日本では劇場公開されたのだろうか? 若い女性が主人公で、ロンドンの地下鉄(だったな?)の回転ドアを通りすぎるときに二つの自分に分かれてしまう。それぞれが、そのことを意識しないままに異なる二つの人生を歩み始め、一人は素朴な学生生活だったかOL生活だったかを送るが、人生うまくいかない。もう一人は有名人になって大成功といったまったく異なる人生を送るというストーリー。最後には二人の人格がまたある瞬間にひとつに合体して、ハッピーエンドで終わる。ちょっとしゃれた娯楽作品といったタイプの映画なのだが、大人になって、そんな話を観ていたら、身につまされるものを感じてしまった。

あのとき、あちらの方向に行っていたら、今の自分とは違う自分がいたなと思う人生の分岐点が自分にもいくつかあった。数年前に軽い鬱で気持ちが沈んでいた頃には、「あのとき」と考えることは今の自分を否定してかかることに直接つながってしまい、とても辛かった。鬱の時には、そういう本来考えるべきではないことを一生懸命蒸し返して反芻してしまうのだ。

しかし、最近は少し別な風に考えることがある。人にはいろいろな可能性があり、ここぞというチャンスを得たり、逃したり。あとで考えると、あのときはついていたと己の幸運を喜んだり、逆に大いなる後悔の念にさいなまれることもあるが、どんなに違った道を歩んだと思っても、内なる声に正直に耳を傾けているかぎり、けっきょく一つの人格が指向する方向は最終的にはそんなに変わらないのではないか。別の方向に歩いていった自分と、あるとき、また一つになる瞬間があるのではないか。そんなことをちょっと考えたりする。

スライディング・ドア [DVD]

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*1:最初、うろ覚えで『回転扉(Revolving Door)』と書いてしまい、simpleAさんから訂正をして頂きました。simpleAさん、感謝です!