小磯良平

先週、神戸に行ったときに地元企業の方と雑談を交わす中で小磯良平が神戸の人で、その個人美術館がポートアイランドにあると教えられた。小磯はその方の高校の先輩にあたるという。それを聞いて、ぜひということはなかったものの、時間があればちょっと覗きたいなとも思った。

■神戸市立小磯記念美術館


油絵の職人としての力量を比べたとき、我が国の洋画の歴史の中で小磯の右に出る者はなかなかいないと言ってよいだろう。戦前から名をはせた日本画壇の功労者の一人である小磯良平のことを、平々凡々とした日常を送る僕のような小物ブロガーがこんな風に言うととてつもなく尊大な感じがつきまとうが、まあブログなんてそんなものだと思ってくれる読者の皆様の優しさに甘えて、続けさせてください。


この夏、熱海に住んでいる前の職場の先輩にご案内頂いてMOA美術館に行ったときに、特別展で展示されていた小磯良平の作品を見た。女性がミシン縫いをしているのを描いた1枚と黒っぽい制服姿の数人の若い女性が歌を歌っている『斉唱』。とくに『斉唱』は有名な作品なので、小磯をご存じの方は「あぁ、あれね」と、すぐぴんとくるはずだ(ここにありました)


久しぶりに小磯作品を見て、あらためてなんて上手なんだろうとほれぼれした。彼の女性像は、ギリシャ彫刻の神々が美しいのと同じように美しい。彼の周囲にはこんなにきれいなモデルさんがうようよとしていたのかな、嘘だろ、本当ならうらやましい、とあまり絵画とは関係ないことに思いをいたしてしまうほど、彼が描く目鼻立ちの整った女性像には魅力がある。中間色を効果的に使って品よくまとめられた小磯作品を見ていると、僕はどうも『午後の紅茶』というキリンの紅茶飲料のブランド名を思い出してしまう。


しかし、残念ながら感心はその先に至らない。マネキンが様々な衣装を着るように、ポーズと背景だけが異なる画面。ありがちな意匠に自らをはめることを繰り返す小磯作品には、生来的にある種の力と魅力が欠落している。何故ならそこにはイマジネーションと呼べる要素が悲しいほどに貧弱だからだ。僕の目の前にあるのはそれらしい姿勢を作ることを強いられた人々の群れで、それ以上でもそれ以下でもない。ポーズをしている生身の人間だけを思い浮かべるしかないような絵は悲しい。ならば、イマジネーション、表現への意欲が写真という表現形式のよさを殺してしまっているのではないかとさえ感じられる植田正治の写真に接する方が、好き嫌いは別にして、想像力を活性化させることができるという意味で何倍も楽しい。


こういう書き方は一方的な価値観の発露でしかないのではないかとお疑いの向きもあるだろうが、それはそのとおり。こと絵画に関する限り、僕の好みは相当に偏っている。気象庁の予報官のように万人に役立つことは語れそうにない。


技術はあってもイマジネーションに恵まれなかった小磯は、彼が生まれた国が日本だから歴史に名を残す存在となったが、仮に欧州に彼と同じ絵を描く誰かがいたとしても成功はおぼつかなかったと思われる。洋画という言葉が生きていた時代があって、その時代のヒーローはこんな絵を描いていたのだという歴史的陳列物として小磯の画は残る。絵画の愛好家や画学生は、これからも彼のデッサン力に対して競争心を燃やし続けるに違いない。しかし、小磯のデッサン力を凌駕したからといって世間の注目を獲得できる時代ではないのは言うまでもないだろう。「へたうま」なんて言葉が生まれるほどには我々の時代の鑑賞眼だってそれなりに育っているのだ。小磯が生まれ変わって、今の時代に降り立ったらどんな絵を描くのだろう。