「世界に一つだけの花」以降の世界で

二冊続けてナチスプロパガンダ、広い意味での広告宣伝に関わる話を読んで、自然と連想に誘われたのは末の息子が始めた高校野球。ブログに書くには季節はずれの感はあるけれど。

「甲子園に、恋をした」

「夢の甲子園に向けて」


大会を主催する新聞社は、これでもかと「甲子園」を連呼する。しかし、端で見ている子供たちの意識の射程は、当然のことながら新聞社のプロモーションとは一致していない。神奈川大会に出場した200校近い学校の生徒たち、ベンチ入りしただけで4千人に上る子供たち、スタンドにしか入れない、いわゆる「スタンドベンチ」の選手たちを入れたら一万人になるのかもしれない子供たちのうち、真剣に甲子園の本大会出場を視野に入れていたのは一握りだろうと思う。以前も書いたことがあるが、子供の学校の監督は一回戦突破、子供たちは三回戦進出でシード校と対戦を目標にしていた。どの学校も、いわゆる強豪校と言われる学校をのぞけば、そうした身の丈にあった目標をそれぞれが携えて大会に臨んだのだろうなと、親としては実感するところがあった。大相撲の力士がインタビューでぼくとつに答える「一番いちばん、一生懸命に相撲を取るだけです」という感覚が、かなりの割合の高校球児の本心に近いのかもしれないとも思った。


そんな地方大会直前に目にした新聞社の、商業的にすぎるキャッチフレーズ「甲子園に、恋をした」には、あれれれと拍子抜けした。高校野球ごときにムキになるわけではないが、「頂に立つ」ことが目標であるかのごときプロパガンダは今の世で受け入れられるわけがないし、教育的でもない。グランドに立っている子供たちは力を尽くすことに意味があることをはっきりと感知しているように感じられたが故に、メディアの用意してきた言葉の軽さが滑稽に映る。私は「9.11以降の世界」という言い方をもじれば、日本の現在は「世界に一つだけの花」がヒットした以降の世界ではないかと考えているところがあるのだが、その新しい世界を律する規範を見つけるのは容易ではない。


同じような意味で、tsuyokさんのこちらのエントリーなども、考えさせられるものがある。

■行動は思考を弱める