子供のスポーツで監督になり、いばっているおじさんの気持ち悪さ


もしドラ』の高校野球部マネージャーである主人公が「甲子園に行く!」をチームの目標に定めたのは、現実にはマネジメントの失敗につながりかねないという、ちょっと大人げなく聞こえるおそれもある感想を前回のエントリーに書いた。ところが実際の高校野球では、とてもそこまでの実力がないチームが「甲子園をめざします!」と語るようなのである。その結果、怏々として何が起こるかと言えば、甲子園をめざすための科学的なマネジメントの導入ではなくて、土にまみれる猛練習と精神論の跋扈である。そして、僕の個人的な知見の範疇でだが、驚くほど多くの子どもたちが体をこわす。明らかに指導が間違っていると僕は思うのだが、それらの犠牲はチームを成長させるための肥やしだと達観されているのだろう。反省は見られない。肩を壊す連中が出るような猛練習を乗り越えて剛速球を投げるピッチャー、200球の投球をなんとも思わないピッチャーを作ることがチームの勝利につながることを現場の指導者たちが知っているからなのだと思う。端で見ていて恐いと思うのは、全権をもった監督には誰も意見をいうことができないという状況ができあがってしまうことだ。日本の会社組織みたいになってしまったチームの中で黙々とがんばる子どもたちを見るのは痛々しい。

子供のスポーツにおいて「イチバン」だけが目標であることの危険性は指摘しすぎることはないと思う。「ナンバーワンにならなくてもいい」と別の達観をしなさいということではなくて。

中学や高校野球の指導者が『もしドラ』を読んで、「あぁ、オレはこれまでそうであるべき監督(=マネージャー)ではなかった。これからは本物の監督(=マネージャー)になろう!」と思ってくれたら、その学校で野球をやる生徒たちは救われるだろうと思ってしまった。