天気予報の話

一年坊高校球児の末の息子にとって、当たらない天気予報ほど恨めしいものはないらしい。晴れていれば数日おきに5時半起床で野球部の朝練に出かけなければならない。夜のテレビで「明日は明け方から雨になるでしょう」などと聞かされると「おっ、やった」と小さく喜びの声を上げる。ところが、そうやって小市民的な一瞬の喜びを味わった翌朝、得てして期待の雨は降っていない。眠い目を擦りながら「日本の天気予報はクソだ」と悪態をついているのを見てこちらは面白がっている。「日本の天気予報は、アメリカと違って地形が複雑だし、狭いエリア毎の変化が大きいし、難しいんだぞ」と言ってみるが、空っぽの頭の中を白球が飛び交っている息子は聞いちゃいない。


日本の天気予報は気まぐれなもの、当たらないものの代名詞みたいに扱われることが普通だが、とくに梅雨のこの時期には、梅雨前線の南北方向へのちょっとした上がり下がりで雨になったり、晴れになったりするから予測は大変だ。子どもの頃、山岳部に入っていたので、ラジオの気象通報を頼りに天気図を書いたり、観天望気の勉強を少しやったりした。知識に類することは大方忘れてしまったが、そのおかげで気象予報士のすごさが少しは分かるし、少なくとも当たらない天気予報を恨む気持ちはどこかにいってしまう。こんなに微妙な変化をする前線を相手にして当てる方が不思議なのだ。


これに対して4年住まったニューヨークの天気予報は豪快に当たった。太平洋の影響を受ける西海岸はどうか知らないし、突然の竜巻に見舞われる中西部のような土地はまったく話は違うと思うが、ニューヨークなどの東海岸の天気の変化は日本と比べてしまうと実に単純だ。テレビの天気予報を見ているとテキサス辺りに馬鹿でかい低気圧があって、それが一日後にこちらにやってくるとキャスターがしゃべるとする。その通りになる。ヴァージニア上空を覆っている雪雲がもうすぐ来るので、吹雪になります、と言われればやはりその通りになる。日本のように複雑に本州の上で二つ球低気圧ができたり、前線が形を変えたりなんてことはなく、信じられないほど巨大な前線が下の方から広大なアメリカの大地を通ってずーんとやってきて、そのままの形で通り過ぎる。気象予報士なんかいらないなと思うほど東海岸の天気は日本に比べて分かりやすい。


今日の話にうまい落ちは何もないのだが、天候が人々の気性やものの考え方に与える影響みたいなことをアメリカにいるときにも、帰ってからもよく考える。日本人の穏やかさが、温暖で湿度が高い、じめっとした気候と無関係ではないのは誰が考えても明らかだ。最近の「異常気象」で社会も人の心も微妙に影響を受けることになれば、それは少なくともよい方向には働かないだろうなとは思う。