硬球は危ない

昨日の午後は高校生1年生になる息子の野球部の練習試合を見に行ってきた。お互い夏の地区大会で1回戦を勝ち上がれるかどうかというレベルのチーム同士だが、それでも間近に見る本物の野球はテレビで寝っ転がりながら見るメジャー以上の迫力がある。1回戦ボーイといったって、高校生の投げる球は速い。バットにボールが当たる音、それがミットに吸い込まれる音の恐いばかりの威圧感だ。


この試合で3人の子が、ボールを体に当ててうずくまる場面が見られた。一人の子は一塁から二塁に向けて盗塁を敢行し、見事なヘッドスライディングで塁を盗んだと思ったところにショートのグラブをすり抜けたキャッチャーからのワンバウンドのボールが飛んできて、運悪くみぞおちを直撃してしまった。七転八倒していたので、相当痛かったのだろう。ボールが当たってけがをする機会は日常茶飯事のようで、先月見物していたときにも似たような場面に出くわしたし、この日には僕が帰った後にキャッチャーが顔に当てて交代になったそうな。


みっともない話なのであまり言いたくないのだが、僕も息子と連休中にキャッチボールをしていて太陽が目に入り球を見失い右足の太ももに、比較的近いところから投げられた硬球をぶつけて大きなあざを作った。その次の週には、今度はキャッチャーを買って出たところが、ショートバウンドを取り損ね、それが右足首の骨の上にぶつかり激痛にもんどりうって地面に倒れ込んでしまった。この痛みは3週間経過した今も完全には取れていない。立て続けに痛い思いをしただけに、硬球の怖さが身にしみている。あの重くて固いボールがショートバウンドで飛んでくると、取るよりも先に逃げたくなってくる。


ずっと不思議で仕方がないのだが、そんな危ない野球の硬球がなぜ心身の健全な発達を促進するはずのスポーツの中で使われ続けるのだろう。考えてみると、そもそもボールが当たってけがをするスポーツは野球ぐらいのものなのだ。その他の球技では突き指はすることはあっても、ボールを受け損なって退場なんてことは起こるべくもない。しかし、野球は取り損ねたら、何球に一球かはけがにつながる危険がある。腕に当たれば骨折もするし、頭に当たれば障害や死につながりかねないのだ。これは明らかに何かがおかしい。誰に義理立てしてそんな危ないボールを使い続けるのか。軟球でいいじゃないかと思ってしまう。ある日一斉に「今日から野球はソフトボールでやります」と宣言すれば、子どもたちのけがは減るし、プロ選手だって同じだろうに、あの凶器のような硬球を使い続ける必然性はどこにあるのだろう。


と考えをめぐらしていくと思い出すのはアメリカで見た光景だ。二人の息子はアメリカにいたときに地域のリトルリーグで野球をやらせてもらったが、今、高校球児をやっている息子が1年生になったときに参加したちびっこたちのリーグはめちゃ可愛かった。生まれて初めて野球をやる子どもたちは「ティーボール」という野球一歩手前の遊びで野球のなんたるかを学びながら遊ぶ。「ティー」はティーバッティングのティーで、バッターはホームベース上に置かれたTの字型のボール置きに据えられた、止まったボールを打つのだ。三振はなし。当たるまでバットを振ることができる。我が子も空振りを5回ぐらい盛大にやったあとでまぐれでボールがバットに当たると、大喜びで一塁に走っていた。想像していただくと分かるだろうけれど内野手は内実は内野手以前の選手たちだから、ことごとくセーフになる。たまにアウトを取ると大騒ぎ。可愛いったらない。


しかし驚くのは、そんな5,6歳相手の野球もニューヨークではちゃんと本物の硬球を使うのだ。顔にでも当たれば事故につながりかねない。だから、投球をしないためにもっぱらゴロ処理係になる投手は、あごを保護するアメリカンフットボールのヘルメットを毎回着用するのである。これには唖然とする。なぜ、そこまでする? なぜ、ふわふわのゴムボールではいけないのか? 安全性ということを考えれば、ふわふわボールを活用する合理性の存在は言うまでもない。こういう不条理と感じられるところに文化の特性は分かりやすく表現される。とすれば、アメリカの硬球に対するこだわりは何に拠っており、何を意味しているのだろう。問題を出しておきながら卑怯ですが、この問は僕には難しすぎる。今日はここまでにしときます。