1975年のカール・ベーム体験(3)

最初の入居者として70年代前半に多摩ニュータウンに引っ越した叔母の家に遊びに行くと、我が家にはなかったステレオ装置がおいてあり、数十枚のレコードがあってそのほとんどがクラシックだった。これを繰り返し聴くのがなんとも楽しみだった。当時、多摩ニュータウンの抽選もけっこうな倍率だったのではないかと思うと、ウィーン・フィルの件といい、叔母はくじ運に恵まれた人だったらしい。

当時クラシックで商売しているレコード会社は今ほど多様ではなく、グラモフォン、デッカ、EMIでほとんどすべてだったが、なかでもカラヤンベームクーベリックアバドなどを指揮者陣に要するグラモフォンの市場占有率は高かった。叔母の家にもベームベートーヴェンモーツァルトが何枚かあり、僕にとってベームは貴重なクラシック音源の、黒光りする円盤の向こうから妙なる楽音を響かせる人間離れした種族の筆頭だった。カラヤンの影響力が巨大だった時代、その対抗馬は音楽的にも、ビジネス的にも、人間のタイプというかイメージ的にも、ベームか、まったく違う方向に立つバーンスタインかというのが衆目の受け取り方だったと思う。

そんなベームをこの目で拝める、その音を実際にこの耳で聴けるというだけで舞い上がったはずだ。それまでベームが振る映像を僕は一度も目にしたことがなかったから、NHKテレビで連日放送された映像には強烈なインパクトを受けた。82歳の高齢のため少し猫背になり、足下も少しおぼつかなくなりかけたベーム翁が眼光炯々とオケを睨み、イチ・ニ・サン・シというきれいな拍子を刻む棒とはまったく正反対の、必要最小限しか腕を振らない独特の手振りでキューを出すと、それに反応して世界一のオーケストラが信じられないようなガッツに溢れた音楽を返してくる。クラシック音楽イコールお上品、午後の紅茶、休日の暇つぶしといったイメージとは正反対の、寄らば切るぞの気迫の横溢に無垢な15歳はただただ圧倒されてしまった。

ベームと仕事をしていた当時のウィーン・フィルはすごかった。コンサートマスターにゲルハルト・ヘッツェル、ライナー・キュッヘル、ウェルナー・ヒンクといった人たち。第二バイオリンには楽団の親分であるヴィルヘルム・キューブナー。オーボエがゲルハルト・トレチェク、フルートはベームモーツァルトの協奏曲の録音もあるヴェルナー・トリップ、さらにはヘルベルト・レズニチェク、ヴォルフガンク・シュルツ。クラリネツトにはアルフレート・プリンツ、さらにペーター・シュミードル。トランペットにはアドルフ・ホラーがいた。ともかく、当時のウィーン・フィルはそれぞれがソロの奏者として一家をなすような大御所ばかりで、もちろん皆ウィーンの音大の教授先生、プロフェッサーとドクターだらけなのだが、それらの権威が、ベームの何だかわかりにくい棒が一閃した瞬間にこの世のものとは思えないようなアンサンブルを紡ぎ出す。連日、FM放送とテレビにかじりつきながら、僕の脳髄には「これが本物のオーケストラの演奏なのだ」というメッセージが徐々に、しかし確実にインプットされていった。

子どもの頃に出会った、こういうイベントというのは人の考える枠組みや嗜好を決めるほどの影響力を及ぼすもので、僕にとって音楽は趣味の範囲を出ることはなかったけれど、クラシック音楽が一生の連れ合いになったのも、その後、あらゆる演奏がこのときの印象をもとに測られるようになったのも、ついては「仕事で弾いてます」的な気のない演奏を聴くのが嫌でオーケストラのコンサートに行かなくなったのも、すべてこのときの体験がその下地にある。偶然とはいえ恐ろしい。さっき挙げた楽員の名前なんて、一生懸命覚えたわけでも何でもないのに、頭に染みついている。今や、毎日合っている会社の同僚の名前も「うーん、あの人なんて言ったっけ」と耄碌寸前状態なのだから、若いと言うことはすばらしい。大いなる能力と感能力に恵まれたすばらしい人生の時期なんだと実感する。

ただ、カール・ベームの日本公演で僕が受けた感銘は、なんら特別なものだったわけではまったくなく、俯瞰してみれば横浜の15歳は電気ショックに見舞われた日本全国のクラシックファンの真砂の一つだったというほどのことにすぎないのだと思う。実際、音楽関係の雑文を読むと、このときの印象を文字にするケースに何度となくぶつかってきた。そのほとんどが音楽関係者だから、いかにこのときのベームウィーン・フィルの演奏がインパクトあるものだったかが分かる。吉田秀和さんも直後の新聞評で、さすがウィーンの伝統といった感じの、実に率直な賛美の文章を書いていたはずだ。

それらの「ベーム万歳! ウィーン・フィル万歳!」風の歓呼の中で、もっとも印象的だったのは指揮者の岩城宏之さんの手になるエッセイ。読んだのは何年も後になってのことだった。この演奏会の日、やはり会場で圧倒的な感銘を受けて興奮状態に陥った岩城さん、その日だったか、数日後だったかは忘れたが、ウィーン・フィルの総務、つまりオケのとりまとめ役だったヒューブナーさんら何人かの知り合いの楽員と飲み屋で打ち上げとなり、彼らに対して自分がいかにベームの指揮に感動したかをまくし立てたそうな。それに対して、ウィーン・フィルの先生方は「今回はじいさんを立てなければいけないから、僕らががんばって弾いてあげたんだよ」という類の反応を、さも当たり前のように返してきて、岩城さんは二の句が継げなかったというお話。すげえ。

この種の話はウィーン・フィルにはつきものだが、岩城さんの証言もウィーン・フィル伝説を確固とするものとしてオモシロである。ある人がコンサートに向かっているウィーン・フィルの奏者に「今日はどなたが指揮をなさるのですか」と尋ねたら「誰が指揮者は知らないが、我々はベートーヴェンの7番を演奏しに行くのです」と答えたとか、あれこれと指示をする若い指揮者に業を煮やした団員の一人が「今度くだらないことをいったら、お前の言うとおりに弾いてやるぞ」と答えたとか。これらは当時のプログラムに門間直美さんが書いていて覚えた話だが、そんな大先生方を本気にさせるベームじいさんはやはり大した御仁だったと言ってよいのだろう。