ブルックナー交響曲第3番は実にマゼールに合った曲だと思う

ブルックナーを初めて聴いたのはマタチッチがN響を振ったライブのFM放送だった。1970年代半ばのことだ。聴いたのは交響曲第8番。モーツァルトベートーヴェンブラームス交響曲としか思っていない耳にはまるで前衛音楽に聴こえた。あとで考えると、そのラジカセから聴こえてきた豊かとは言えない音がブルックナーに病みつきになる最初の最初の契機だった。

8番でブルックナーに開眼した後は、おそらくブルックナーを聴く多くの人がそうだと思うが、4、5、7、8、9あたりをしばらくは一生懸命に聴くことになる。個人的には5番にはまり、だいたい8番と5番ばかりを聴いていた。反対に一番ポピュラーと考えられる4番は、最初に聴いた(当時は決定盤の扱いだった)ベームウィーンフィルの演奏がよくわからず、あまり聴かなかった。

後期のブルックナーは素晴らしいとリスニングに熱が入ったが、4番以前はほとんど理解不能で、3番はずっとそのなんだか分からない象徴のような存在として君臨してきた。なんとへんな曲だろうと思う時代が長いあいだ続いた。

それが、あるとき、ついこの十年のことなのだけれど、とても面白くなる。僕の場合は、単調な曲に思われた4番がまず面白くなり、3番、2番、1番、0番と遡ることになった。これら初期のブルックナーには後期の、自身の内面を底まで突き詰めるような精神性は感じられない代わりに、溢れる自己肯定のエネルギーとすでに最初の最初からブルックナーならではのオリジナリティがある。そのオリジナリティに含まれているのが、従来の形式観をぶち壊す奇妙な楽曲構成のありよう。それを初期から見事の一言に尽きる対位法の処理とオーケストレーションを伴って作動させるものだから、聴く方は幻惑されてしまうのだが、あるとき、ブルックナーと自分の気持ちとがシンクロしたのではないかと思われるような瞬間が天から降ってきて、わだかまりが瞬間に崩壊する。なんだか、そんな感じ。

で、3番のような曲は、うわべの精神性と無縁の指揮者で聴きたい。ひたすら面白く。となると、存命の指揮者で期待すべきは誰あろうマゼールである。という訳で、このミュンヘン・フィルとマゼールの3番は、公演の開催を知った日に胸踊り、チケットの発売日にしっかりと購入をした。2万円を超えるコンサートの切符を買うのはおそらく20数年ぶり。そして、その甲斐は十分にあった。