マゼールとミュンヘン・フィルの愉悦

マゼールは意識的に追いかけた音楽家ではないので、彼とミュンヘン・フィルがいつから一緒に仕事をしているのかはまったく知らない。音楽会当日のプログラムを買えばその辺りの事実関係については記述があったかもしれないが、外来演奏家のコンサートでお金を出してどうせ一度きりしか読まないプログラムを買うのはもったいない。そこでウェブでミュンヘン・フィルの音楽監督紹介ページをいまちらと見てみたのだが、そこにはマゼールの紹介はあっても、このオケとの関係については特段の記述は見当たらなかった。彼が90年代に同じミュンヘンバイエルン放送交響楽団音楽監督を長く務めたのは知ってるが、欧米をまたいでとてつもなく長いキャリアを誇ってきた人だから、ミュンヘンとも客演の関係は長くあったのだろうか。

そんなことに思いが至るのは、今回の演奏会があまりによかったから。マゼールは、この2012−2013年のシーズンから3年間に限って暫定的に音楽監督を務めるらしい。ということは、任を離れるときは85歳、あるいは86歳ということになるのだが、その間にもう一度ぐらい日本に来てくれないかしら。そしたら、今度は冷やかし気分混じりではなく、100パーセントの期待をもってチケットを買ってやるぞと思った。それは絶対に。

木曜日のコンサートはそれほどによかった。数えてみると、追っかけてもいないはずのマゼールを聴いたのは7度目にもなる。最初に聴いたのがピッツバーグ交響楽団とのブルックナー交響曲第8番で、おそらく80年代の後半といった時期ではなかっただろうか。サントリーホールでの演奏会だったが、同じブルックナー、同じ指揮者なのに演奏の印象は正反対で、2度とこの組み合わせでブルックナーなど聴いてやるものかと憤慨したのはよく覚えている。

当時は、音楽を受け取るこちら側に若さゆえの一本気しかなかったので、マゼールの自己主張は、音楽の本来の魅力それ自体を邪魔しているだけに思えたものだ。それにピッツバーグ・クラスの、という意味はアメリカのビッグ5の下のクラスのオーケストラを聴いたのもこの時がはじめてだったのだけれど、下手なアメリカのオケってこうなるんだと驚きかつ呆れたものだ。オーケストラの下手さというのはこういう風にも出現するのかと、反面教師としてはたいへんよい授業だったのである。

その時のピッツバーグの演奏は、よく鳴るということにおいてはさすがにアメリカのオケで、その鳴り方が誠にゴージャズ、金ぴか風で本来のブルックナーのイメージにそぐわないという点についてはシカゴやクリーブランドなどピッツバーグよりも格上のアメリカンバンドも同じなのだけれど、問題はそこではなく、ピッツバーグにはそれらの上手いオケが持っている柔らかな歌い回しがまるでないのである。アンサンブルはまあきちっとしているが、きちっとしているだけといった方が正確で、弦も管も、メロディにそよぎや憂いや翳の部分が乏しく、剛直で単調。すなわち音楽性が低いのだった。

ヨーロッパのコンクールに行くと、日本の音楽家も技術はあるが音楽性に欠けるといった批評を浴びるのが常だったが(いまはどうなのだろう?)、その時のピッツバーグ交響楽団は、まさに技術はあるが音楽性に欠けるとしか言いようがない内容で、しかし日本人のどこか遠慮気味な演奏とはちがって、音はがんがん鳴り恰幅はいいので、楽曲が最強音を奏でる瞬間の印象だけがやけに耳に残る。そういう演奏を聴き続けるのはなかなか辛いものがある。

ここで言っていることは程度の問題かもしれず、ピッツバーグの演奏が一から十までどうしようもないといことはないのかもしれないのだが、人それぞれの評価軸には、質の違いを感じたり感じられなかったりする閾値があるようである。その一線を一生懸命に聴き取ろうとしている僕の耳にとって、このオセロゲームはピッツバーグの負けということになってしまう。

ちなみにこの後、ピッツバーグ交響楽団を2度も聴くことになった。両方ともにカーネギーホールでのこと。一度は贔屓のゴールウェイがソリストを務めるという理由でマゼールが作曲したフルート協奏曲を聴きに行ったとき。ゴールウェイの演奏を含めて、この時のことはほとんど何も覚えていないのだが。最後は1999年の春。ヤンソンスの指揮でトリに『幻想交響曲』を聴いたときだ。ピッツバーグヤンソンスの力まかせの『幻想』にはとてもついていけず、そんなことはしたことがないのだけれど、『断頭台への行進』が始まる前に席を立って帰宅してしまった。おそらく、もう死ぬまでに2度と聴くことはないであろうオーケストラの、楽しい思い出である。

そんなことを思い返すことになったのも、マゼールならではの闊達な解釈に対するミュンヘン・フィルの柔らかな対応が実に印象的だったからだ。鉄の塊のようなピッツバーグ交響楽団は、マゼールが彼一流のルバートを繰り出しても音楽は固いままで、竹のようにはしならない。ところがミュンヘン・フィルは、下手をするとわざとらしさしか感じられなくなるマゼールの棒に風にそよぐ森の木々のように反応し、音楽に自然な流れをつくりだす。マゼールのわがままが自然に聴こえるのだ。それが美しかった。

客演でやってきた一昨年の東京交響楽団との『巨人』でも、昨年のNHK交響楽団との『指輪』でも、マゼールの棒はむしろ端正で、こうは遊ばなかった。脂ぎったおじさんも歳をとっておじいさんになり、ちょっと端正な芸風に変わったのかと思ったら、あにはからんや。やっぱりやるときゃやるわけだ。マゼールが自在に奏でる楽器と化したオーケストラを目にし、耳で聴くのは楽しかった。思いもよらぬほどの楽しさだった。