ロリン・マゼールと東京交響楽団のマーラー交響曲第1番

昨年、今年の始めと続けてブルックナーを聴いて感銘を受けた東京交響楽団が、ロリン・マゼールを招いて行った創立65周年の記念演奏会を聴いてきた。曲目はベートーヴェンマーラーの、それぞれ交響曲第1番という珍しい取合せ。

フランチャイズにしているミューザ川崎が先の震災で壊れてしまい、楽団が代わりに利用しているのが、新百合ヶ丘駅にほど近い昭和音大のホールである「テアトロ・ジーリオ・ショウワ」。この日の演奏会もここが会場。一介の大学に商業公演が可能な1300席のホールがあるのは大したもので、かつてベームウィーン・フィルを聴いた昭和女子大学人見記念講堂を思い出した。もっとも、アパートに「ハイムなんとか」と付けるのと同じ感性で、どこの国の施設か分からないような名称を付けるのは、みっともないのでやめたほうがいいとは思う。まあ、どうでもいいことかもしれないけれど。

初めて訪れるホールはいったいどんな音がするのか、常に興味津々で出かけることになる。しかし、イタリアもどきホールで僕が座った最上階3階の袖の席は音響的に満足できる水準ではなく、それだけでフラストレーションがたまった。こじんまりしたホールで音は十分な大きさで届いてくるのだが、響きがデッドで、弦と菅とが混じり合わず、サントリーホールで聴いた同じオーケストラの音とは思えない。低音の豊かさがなく、残響の乏しいために、出てくる表現がこちらの耳は柔らかい当たりやニュアンスが欠落したものに感じられれてしまう。オーケストラにとっても、あの会場では弾きにくかろう。下の席でどんな音が鳴っていたのか知らないが、もう少しよい会場で同じ演奏を聴きたいと思いながら聴く演奏会は少々辛かった。

かくのごとくホールのせいで確実に感興の何割かが削がれてしまったので、この日の不満は演奏家の皆さんに対するものというよりも、会場変更を含めた演奏会の企画そのものに帰すべき部分が大きいように思われるが、海外の大物指揮者を招いて限られたリハーサルの中で結果を出す難しさが明々白々に表れたコンサートだった。不満の核心を一言で表すとすれば、ホールのことを含めて「中途半端」ということになるだろう。

マーラーの1番の演奏には、ここそこに「これぞマゼール」と言いたくなる個性的な表現が刻印されていた。思い切ったルバート。誇張されたポルタメント。メロディが際立つ立体的な音響。そして一段と音量を上げて鳴らすエンディングの派手な表現。それらはマゼールらしさの紛れもない刻印であり、そうした部分を取り上げれば、聴くべきものを聴いた感はあったが、さはさりながら、全体を通しての印象といえば、一人の人間が明確な意思を持って歌を奏でているという風には聴こえてこないもどかしさがついてまわる。おそらく練習は1日、2日。とすれば、マゼールが望んでいた歌が、楽団の気負いや緊張という要素も相まって、どこまで表現されていたか疑問が残る。

僕にとって、マゼールは好んで聴く指揮者ではないものの、それでもライブで聴くのは4度目のことで、それなりに彼の実演を楽しんできた。「あたしゃ(例えば)ブルックナーを聴いたいのであって、あんたを聴きたいわけじゃないんだよ」と言いたくなるのはいつものことで、繰り返し録音を聴きたくなる指揮者ではないが、そこを割り切れば彼の実演が音楽の楽しさを彼でしかできないやり方で味あわせてくれる稀有の存在であることは間違いない。だから、このスーパースターに東京交響楽団が応えられれば、少なくとももう少し、もっと面白い化学反応があるのではないかと期待してしまったのだが。

僕の素直な感情は、その結果を「残念」と受け取ったが、会場の湧き方は半端ではなく、楽員の皆さんも指揮者に対して盛大な拍手を送っていたから、多くの人たちにとって幸せなコンサートであったのは間違いないようだ。マゼール自身に「演奏、どうでした?」と尋ねてみたい気がするが、そうしたところで如才のない81歳は「素晴らしい!」としか答えてくれないかもしれない。


■スダーン指揮東京交響楽団のブルックナー交響曲第8番(2010年12月4日)

■フロール指揮東京交響楽団のブルックナー交響曲第5番(2011年2月20日)