デ・ワールト指揮NHK交響楽団のブルックナー交響曲第8番

エド・デ・ワールトがNHK交響楽団を指揮したブルックナー交響曲第8番をNHKホールで聴いた(11月16日)。2週間前にブロムシュテットの指揮で心が高揚する第4番を聴いた余韻が残っており、その余韻がこの日もそれなりによい演奏が聴けるのではないかという何の根拠もない淡い期待を懐胎させていた。そんな前向きな気分でNHKホールに出向いたのだが、そうは問屋がおろさない。これだから生演奏は面白い、と負け惜しみを書いておくことにする。

N響の演奏会なので、技術的に不安定で、事故が起きないかとはらはらドキドキというのではもちろんない(この日のアンサンブルはよくなかったが)。場所がNHKホールで、弾くのがN響なので、ドイツのオケが弾くブルックナーのような、どっしりとした響きが出てこないのも想定済みであり、そこにケチをつけるつもりもない。その想定の中で、どんな驚きや納得感を持ち帰ることになるかが、知らないわけでもないオケを聴く愉しみだとしたら、この日はあんまり愉しくなかったよ、ということになる。というよりも、この曲を聴いて、こんなにもつまらない思いをしたことはこれまでなかったと言いたくなるコンサートだった。責任が指揮者にあるのは疑いないだろう。

デ・ワールトの曲の扱いはいろいろな意味で粗雑で、N響も指揮者によっては、こうもきちっとしたところが欠けた演奏になるものなのだなと面白かった。細かいところにこだわるブロムシュテットなどとはかなり肌合いの違う指揮者である。ちなみにブロムシュテットは、十数年前にNYフィルで6番のリハーサルを聴いたことがあるのだが、第一バイオリンのある箇所のフレージングが気に入らないとなると、プロの一流オケを相手に、まるでアマチュアを相手にするように何度もパートだけで同一のフレーズを繰り返させていたのが印象的だった。やってらんないよと思う団員さんもたくさんいるだろうなと同情したくなる気分にもなったが、そんな風にコントロールすることで、曲の表情全体が指揮者の望むような方向に引き締まっていくのが分かるのが素人が端で見ていても分かるのである。

今回の演奏はその辺りの感じられ方が真逆で、そこここのフレーズを、それぞれのパートが当たり障りなく演奏しているように聴こえてしまうのである。指揮者の意図が全体に浸透し、オケがひとつの意思を持った有機体であるかのように聴こえてこない。意図が見えないという点については、全体の構成に関しては残念ながらさらに強く感じられ、単純なメロディを持つパーツが微妙に変化しながら交互に繰り返される構造を持つブルックナーで、部分と部分の関係が見えてこないような演奏をされてしまうと、聴衆としては何を思っていいのかがよく分からなくなってしまう。それぞれの章の構造がくっきりしないと、すべての章のテーマが曲の最後で同時に鳴り響く8番の驚異的なフィナーレもくっきりと意味のある形として見えてこない。曲が進むに連れて、作曲家の意図が聴衆の胸に染みこんでくるというのがブルックナー体験の一つのかたちだと思うが、指揮者にはっきりとした意図がないかぎり、オーケストラが統一的な意思を持って演奏しているようには感じられず、見えるはずのものも見えなくなる。こういう演奏を聴くとそのことがよく分かる、と言いたくなる演奏だった。