1975年のカール・ベーム体験(2)

前回のエントリーでものの弾みでカール・ベームの1975年日本公演の話を書き始めてしまったのだが、実のところは、聴いた当日の記憶は僕の中にほとんど何も残っていない。聴いたのはシューベルトの「未完成」と交響曲第9番「ザ・グレート」の2本立てのプログラムの第2日目。同じプログラムの最初の公演でテレビが入ったので、この日は映像は残っていない。録音はあるのだろうか。少なくとも当時はテレビが入った同プログラム第一日目の録音しかオン・エアされなかったので、いったいそれがどんな音だったのかは確かめるすべがない。音も残っておらず、映像も記憶から消えている。あれは自分の見た夢だったのかも知れないと考えてみると、本当にそんな気さえしてくるほどだ。

しかし、忘却の霧の向こう側にいまだに見える記憶の断片がひとつだけある。すべての演奏が終了し、満場の喝采のなか、ベームがなんども出たり入ったりを繰り返したのちについにオーケストラの面々が解散する。これはこの来日公演で毎晩繰り返された眺めだったのだが、オーケストラの団員が引っ込んでもお客さんの拍手は鳴りやまず、1階のお客さんの多くがステージ前方に集まってくる。その中を帰り支度のコートを引っかけたカール・ベームが喜色満面で再度舞台の上に姿を現す。舞台の際に並んだ人たちがベームと握手しようと手を差し出し、あらためてホールは熱狂の場と化す。

僕はオケが解散するタイミングで3階席を飛び出し、長い階段を1階に走り降りた。たぶんとっさに思いついた行動だったと思う。案の定、その日もテレビで見たのと同じ光景が繰り返されていた。ステージ右脇の扉からホールの1階に飛び込んだ僕の眼に指揮台の周りを取り囲んむ群衆が飛び込んできた。ちょうどその時、ベームが舞台の暗がりからにこにこ顔で出てき、両手を体の前に突き出すようにして観衆に応える仕草をすると、ホールはさらに高い拍手と理性を失った歓声に割れた。目を閉じればそこがお上品なクラシック音楽のコンサート会場とは信じられなかったはずだ。

僕が覚えているのは、その光景。初めて間近に見るコンサート会場のライトがものすごく明るく、その中を照らされてにこにこのベームの肌の色が血色のよい白さで輝いていたこと。本物のベームはライトの下にくっきりと輪郭を現し、想像以上に生々しかった。変な感想だが、そのことだけがしっかりと記憶に刻み込まれることになった。82歳のカール・ベーム翁が数メートル先でにこにこといつまでも手を振り続けていた。
また、続きは書きますが、コンサートそれ自体の話はここまで。楽音はなく、歓声だけが聞こえる。