『mmpoloの日記』に吉松隆の武満徹評が紹介されており
(http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20070514)、いろいろと想像を巡らせて楽しかったのだが、その余勢を駆って帰りがけにCD店に寄ったら、入るなりモーツァルト交響曲第41番『ジュピター』の第一楽章が鳴っている。その瞬間、これって誰の演奏?と鳴り響くジュピターに耳が吸い寄せられてしまった。むちゃくちゃにきれい。美しいというだけでは足りない。言葉にすると嘘っぽいが、根源的な何かにさわっている演奏だと感じずにはおれなかった。一直線にCDのジャケットが置いてあるカウンターに行って演奏家をたしかめたら、カール・ベーム指揮のウィーン・フィルじゃないか。なんだ、そうなのかと瞬時に自分自身が魅せられた理由を了解され、久しぶりに聴いたこの録音の思いがけないと言ってよい力にあらためて心がとらわれるようだった。根源的と思えたのは、僕自身の過去を聴いていたからなのだ。
1977年にウィーン・フィルと入れた『ジュピター』は、残念ながら大向こうを唸らせるとは言いかねる録音だった。ウィーン・フィルならではの流麗さはさすがと言えたが、全盛期のカール・ベームはその上にもう一段ガッツのある音楽を作っていたはずだという思いがあったから、最初に聴いたとき、口当たりがよすぎる演奏に少しだけ「あれっ」と思った。そこには肩すかしを食らったようなもどかしさの思いが含まれていた。それ以前にベームがモーツァルトの交響曲を録音していたのはウィーン・フィルではなく、ベルリン・フィルで、モーツァルトの交響曲全曲演奏のディスクとして名盤の誉れが高かった。今度はウィーン・フィルとの初めての録音、どんなすごい演奏だろうとわくわくしながら、そう、当時ベームの『ジュピター』が出たときにいちもくさんに買いに行ったのだった。1977年の録音。ということは高校3年生だったことになる。今日のブログは武満徹を話題にしようと思っていたのだが、今日はベームを書かないわけにはいかなくなった。
1975年にカール・ベームが来日し、ウィーン・フィルを指揮した一連の公演は日本の洋楽受容史に残るであろう一大イベントだったといったら、若い人は信じてくれないかも知れない。こういう話を書くにあたっては、検索エンジンを経由して読みに来ていただくクラシック好きの方といつもこのサイトをお読みいただいている方の二つの層を意識しなければならないので少し気をつかう。テーマに関する知識の量がまったく違うはずだから。クラシックファン、とくに古くから聴いていらっしゃる方々には「今さら」と感じられる記述が他出すると思うが、その点はどうかご容赦のほどを。
というわけで話を戻すと、このときの洋楽ファンの盛り上がりといったら、クラシックに関心のない方々、年若い方々にはとても想像できない途轍もなさだった。おそらくホロビッツとブーニンの時と並んで狭い洋楽ファンの枠を越えて外来音楽家の公演がなにがしかの影響を日本の社会に及ぼした数少ない出来事だったのではないかという気もする。NHKはFMで連夜生放送を行い、翌日だがには録画をテレビ放送し、舞台裏のベームをカメラが追いかける。ブラームスの一番の演奏の翌日には奥さんと一緒にスタジオで門間直美を聞き手にインタビュー番組を組む。NHKはベームだらけ。一緒に初来日したのは、今や大家だが、当時の日本では知名度ほぼゼロだったリッカルド・ムーティだった。かわいそうにベームが帰った後に東京公演をまかされた彼のコンサートは切符が余っていた。
当時のカール・ベームという言葉が持つ後光の強さは、数年前のギュンター・ヴァントブームなどまったく比べものにならなかった。今のように情報があっという間に世界を駆けめぐる時代ではない。ヨーロッパは世界のあちら側にあり、『兼高薫世界の旅』が超人気番組で、「オバQと一緒にハワイに行こう」なんてクイズ広告がプラチナイメージを放った60年代はまだオンリー・イエスタデイだった。ベルリン・フィルやウィーン・フィルの定期演奏会が映像で入手できるなど夢にも見ることができない時代だから、グラモフォンの黄色いエムブレムやデッカの赤いロゴが入ったレコードは私たちの情報源、世界への窓である。NHKのFM放送が数ヶ月遅れで流すRIAS放送協会など海外放送局のコンサートの録音が途轍もない価値を持っていた。もちろん、たまにやってくる外来の有名指揮者は、来るというだけでその都度が事件になった。こんな風に思い返すと、僕が子どもの頃の世界は戦前ジンバリストやクライスラーが来日して大騒ぎした頃と地続きだったというわけだ。情報化の進展したいま、状況はまるで変わってしまったので、この感覚を共有しているのは、今いくつの方までだろうと隔世の感に打たれる。放送の多チャンネル化とインターネットはこの分野の体験のあり方を根本的に変えてしまった。
そうした閉ざされた島国でクラシックを聴く者にとって、音楽の都ウィーンが誇るウィーン国立歌劇場音楽監督にしてウィーン・フィルに君臨する巨匠、オーストリア政府が用意できる勲章はもらえるだけもらってしまっていたカール・ベームの存在は帝国に君臨する王のごとき存在だった。ほんとうはそういうヒエラルキーが存在していたわけではなかったのだろうが、そんなことを理解しているのはよほどあちらのことをよく理解している一部のよほど高度なリスナーだけで、指揮者として当時の人気を二分していたヘルベルト・フォン・カラヤンとともにベームの名前はこの世界の頂点にあった。当時の人気は、「カラヤンか、しからずんばベームか」で、極端に言えばアンチ・カラヤン派=ベーム派という図式が多かれ少なかれ存在していた。また、我々の上の世代にとってみれば、日生劇場のこけら落とし(1963年)の強烈な印象が残ってもいた。多くの評論家が競って文字にしているベルリン・ドイツ・オペラの日本公演。この時に初来日したカール・ベームは彼の十八番のオペラである『フィデリオ』を振って日本のファンに鮮烈な印象を植え付けていた。おそらく、我が国のベーム崇拝はこの時の印象、それを書きまくった評論家達の言説が大きな影響を与えているはずだ。
そのベームが日本公演にやってくる。それもついに日本で初めて世界最高のオーケストラと謳われるウィーン・フィルとのコンサートを開催する。あらゆるクラシックファンが待ちこがれたイベントだったと言ってもあながち誇張ではないと思う。音楽好きの中学生にとってはただただよだれが出るような話である。NHKホールでの5プログラム、7公演は、NHKが招聘し、テレビ放送のお知らせコーナーで繰り返し開催を周知したために、それまでのクラシックコンサートでは想像もできないほどの盛り上がりとなった。チケットの入手は、その当時聞いたことがなかった葉書による申込み・抽選だった。当時中学校3年生の冬を過ごしていた僕は、恐ろしく勢い込んで家族の名前全員ではがきを書いた。しかしいくら勢い込んだところで、当たる見込みはまずなった。後にどこからか聞いたところによると10万だか、20万だかの応募があったらしい。たかがクラシックのコンサートに、である。結果は想像に難くなかった。
ところがである。どこで何が起こるか分からない。一人暮らしの叔母がプラチナチケット2枚を射止めたのだ。僕の音楽好きを知っている叔母が気を利かせてくれた。信じられないことが起こってしまった。消費にまつわる思い出として、自分にとって今後もこれ以上のものは決して存在し得ないだろう体験がこうしてやってきた。
ここまで書いてお腹いっぱいになってしまった。続きはまたこんど、ということにさせてください。