利己的な遺伝子

長男ととっくみあいの喧嘩をして勝てなくなったのは奴が中学生の後半の頃。バスケットボールでジャンプしてもかなわないし、ボールを投げてもまるでかなわなくなった。そんな単純な事実が積み重なって、ある日、「そうか、俺の時代はもう終わっていたのだ」、卒然と当たり前の事実に思い当たる。こういう気づきの機会がもう少しインテリジェントだと格好いいのだが、そうはとんやがおろさない。人生、夏の後に秋が来て、冬が来るのは残酷なものだなと思う。こういう諦念を思い知る契機として子どもの存在はほんとに分かりやすい装置だ。


自分の意識はまだ大学を出て十年もたたない頃とそれほど変わっていないし、場合によっては十代の感情をそのまま引きずっていたりするのに、子どもがその年齢を通過しようとしているのを見ると、自分の美しい思い違いにぐさりとどこかを刺されたような気分にさせられる。まったくもって自我のやっかいさには驚かされるばかり。


こんなとき、どうしても考えざるを得ないのは、自分は「利己的な遺伝子」の乗り物としてここにたまたま存在しているという考え方で、リチャード・ドーキンスの本を読んだときには、なんだかやけにすんなりと腑に落ちてしまった。俺は単なる乗り物だという考え方は、鬱の時には耐え難い類の思想だろうが、今の自分にはそれはそういうものだろうと、むしろ積極的に説得されてしまいたい部分がある。何か個人を超えた大きなもののパーツとしての自分を想像してみることで、もしかしたら、自分が全く気がつかないだけで、俺もそれなりに何かの役に立っているのかもしれないと、むしろ自分を鼓舞することができるように思うのだ。これはなかなか悪くない。そういう思いをくぐり抜けることによって、あらためて個の尊厳に出会えるような気もするのだ。


利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>