ともだち

一年ぶりに友人と呑んだ。アルコールは大好きだけれど、数値を計ると生来肝臓や膵臓の機能が弱いらしい。だから量はからきしで、あっという間に気持ちよくなってしまう。昨日も数杯の焼酎でさんざん酔っぱらったが、このときの気持ちよさの源泉は焼酎のおいしさではなかった。

若い頃は「自分のことを分かってくれる」のが友達、「お互いを理解し合える」のが友達なのだと思っていた。ところが、この定義を掘っていくと、相手の理解できない部分に出会ったときに「あれっ、自分と違う」と困惑し、信頼の基盤と思っていたものが魔法のように消えてしまいそうになる。大人になってしまうと、そんな素朴なもたれ合いには慎重になり、だから友人を作るのはそんなにやさしいことではなくなっていく。

最近はこんな風に考えるようになった。相手が持つ自分にはない何かに対して敬意を払えるか、自分との違いを尊敬できるか、あるいは面白がれるかが相手を友達として認めることができるかどうかの分かれ目ではないか。「おまえの考えることは俺とは違う。そこが気にくわない」から始まってしまっては人間関係は深まらない。「おまえの考えることは俺とは違う。そこが面白い」と言えるようになれば、そして運良く相手も同じ風に受け止めてくれたならば、もしかしたら何かが始まるかも知れない。

ブログを続けていくうちに、この考え方はむしろ確信といってよいほどになってきた。同じことを考えている奴が面白いわけじゃない。互いの傷をなめ合う関係が嬉しいのでもない。相手が持つ思想の、自分とのズレを関係の始まりに据えることができれば、そこに言葉にはしにくい人間的な共感がくっついていれば、大人になったって友達はつくれる。なかなか簡単なことではないけれど、こちらに心構えがありさえすれば、できないことではないようだ。