終わった後で

スポーツ選手の寿命は短くて、中日の山本昌弘や横浜に行った工藤のように40歳代でもほとんど衰えを知らぬ剛の者も希にはいるが、選ばれし彼らがグランドで輝いている時間は、通例は犬の一生よりも短い。野球はそれでもまだ寿命が長い方だろう。Jリーガーになると野球よりも簡単にお払い箱の憂き目にあう可能性が大きく、数多くの人たちが二十代前半でプレイヤーとしての死を迎える。


そして、一部の選手を除けば、選手寿命が過ぎて後、本当の、生物としての死を迎えるまでには長い長い時間を過ごすことを余儀なくされることになる。そこでJリーグでは、そうした元選手たちのために、引退後の職業斡旋を含めた支援プログラムを数年前から組んでいる。この辺りは社会との関わりをプロ野球にはない鋭敏さで自覚しているJリーグならではの素晴らしさだと思う。もっとも、それらがどの程度のできで、どの程度役に立っているのかなどについてはまるで知識がないのだが。なぜこんなエントリーを書いているのかと言えば、自分自身単純にスポーツが好きだからでもあるが、直接には3人の子どもらがそれぞれ部活動などでスポーツに熱中しているからと答えておこうか。正直なところ、家に帰ると運動の話題にうずもれている毎日だ。


ニュースを見ていると、天賦の才という点では可哀想に限られたものしか持ち合わせていないわが子らから見れば、「あいつら、すごい、やばい」と言わざるを得ないエリート・アスリートたちが、本人にとっては不本意な職業的挫折に直面するニュースに数多く出会う。彼ら引退した若い選手たちはどのようにして人生の意味を再び手に入れるのか。また手に入れられないのか。そこにとても興味がある。なぜ?とさらに問われれば、そこに自分の生を考える際のレファレンスとして大いに見るべきもの、考えるべきことが見つけられるのではないかと思っているからだと言わねばならない。


プロスポーツ選手の場合、雇用主から馘首を言い渡され、自他共に認める職業人としての死がやってくるわけだが、僕はその死を、自分にとってはまだもう少し先にあるはずの「定年退職=サラリーマンとしての自分の死」に引き寄せて考えようとしている訳ではない。そうではなくて、どこかですでに一度、若いスポーツ選手たちと同様「死」を迎えている(はずの)自分が、これから如何に生きるべきかを考える際の、凡例探しの一つの機会になるのではないかと、そんな風に考えているのだ。手本は過去にだけ求める必要はないはず。自分よりも上の世代や伝記のなかにだけあるとは限らないはず。


開高健が好んで使った表現に従えば、「木のように立ったままで私は頭から腐っていく」(『オーパオーパ!!』)とはなりたくない故に。「じっとしていると頭から腐っていく」(『夏の闇』)という屈託の思いにとらわれたくないが故に。