ラグビーの試合を見て野球のことなどを思う

昨日、我が家のそばにある明治学院大学横浜校舎の競技場が最新の人工芝にリニューアルされ、その記念として明治学院大学明治大学ラグビーの試合が催された。明治の選手を間近で見ることが出来る機会もないと思い、少し覗いてきた。関東対抗戦グループ上位校と下位校力の差は素人目にも明らかだったが、明学の善戦でそれなりに見応えのある試合を展開していた。




スポーツを見るのは大好きだが、大学ラグビーはテレビでしか見たことがない。予想はしていたけれど、大きな体躯の選手が走りぶつかりあうさまは本物で見るとその迫力にたじたじとなる。体力激減の中年男は、スクラムやタックルのたびに「痛そう」と思ってしまう。見ていて感じるのは、陸上競技などと一緒で瞬発力、つまり走る、投げるなどの基礎体力の差がチーム力の差、得点能力の差に直結していることのやるせなさだ。明治の選手は速いし、明学の選手が捨て身のタックルを決めたと見えても倒れない。健闘にもかかわらず離される得点。負けている側の精神的な疲労の蓄積が目に見えるような機がした。


ラグビーに比べると、たとえば野球やサッカーは偶然が勝敗に関与する余地ははるかに大きいだろう。どちらが好きかと言えば、体力の有無を言わさぬ威圧感を見せつけられるだけではなく、技巧が体力の衰えを補うことができるスポーツの方が面白いと個人的には感じる。もちろん、ただ走るだけに見える陸上競技にも素人には見えない高度な技術が潜んでいるのは、子供が短距離走をしていたおかげである程度は分かったつもりで、ここで問題にしているのはもっと単純な話。今朝の新聞によると、ロッテの小宮山が3シーズンぶりに白星を挙げたようだが、41歳にして活躍の余地があるスポーツの方が見ていてほっとするものがある。そういう話だ。


年齢を生き抜くという意味で、とくにピッチャーは見ていて面白い。速球派の選手が、あるタイミングで自らの年齢的な限界を知り、技巧派として生き残るべく新しい選手人生を歩む、そこで二度目の成功をつかむというストーリーがピッチャーには存在する。ことバッターに関する限り、長打狙いから単打狙いに方針を変えて生き残るなんてのは聞いたことがない。村田兆治のような例外はともかくとして、40歳前後まで活躍するような投手には当然のことながら“亀の甲より年の功”で生きている人たちが多い。僕は、とくに速球で鳴らした人があるときから速い球を投げられなくなり、ポカスカと打たれるようになった末に技巧派として生まれ変わるとき、どのような心理的葛藤があるのかについて興味がある。どこかで「俺の時代は終わった」という諦念をくぐり抜けているのだろうか。おそらくは。プライドを捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。


しかし、プライドの問題だけではなく、スポーツ選手としての中高年の季節を迎えてから、新しい技術を身につけてチャレンジをしていくことの困難さ、その克服の努力にこそドラマはあるはずだ。沢木 耕太郎のボクシングストーリーに惹かれるのもその辺りにあるのあるのだろう。こうした分野で面白いノンフィクションをご存じの方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。