アンスネスのピアノ・リサイタルを聴く

モザイク・クァルテット以来、久しぶりのプロのコンサートはレイフ・オフェ・アンスネスのピアノ・リサイタル。ノルウェーから出てきた人気若手ピアニストだ。(2月6日 銀座・王子ホール


http://www.ojihall.jp/concert/lineup/2006/20070206.htm


アンスネスは1970年生まれの若手だが、理知的で繊細な音楽を奏でるピアニストだ。ポリーニアルゲリッチ辺りから世界的なピアニストはどこかの有名音楽コンクールを制して出てくるものと相場が決まっていたのだが、アンスネスは違う。ノルウェイーで十代に世に出て間もないうちにニューヨークで成功を収め、EMIのおかかえピアニストになっている。コンクール歴はない。詳しい人に訊くと、レコード会社主導で世に出るパターンは最近けっこう増えているらしい。


アンスネス、録音ではショパンハイドン、リスト、グリーグモーツァルトシューベルトをこれまで聴いた。最初に聴いたのはハイドンソナタで、硬質の、歯切れのよい綺麗な音が印象に残った。その後、彼のディスクを聴くたびによいピアニストであることをますます痛感するようになっていった。音が粒だっており、早いパッセージでも、落ち着いたフレーズでもきらきらと響く。ということはテクニックには抜群なものを持っているわけだが、決して派手な盛り上がりを作ることに腐心した安手の音楽作りにならない。音が立っているところはシフなどと通じるところがあるように想像しているが、シフの音楽はどこか考え抜いて自然さを演出していると思えるところがある。それに比べてディスクで聴くアンスネスは、もっともっと作為のない自然なフレージング感がある。凄みを感じさせる演奏家ではないかもしれないが、この人のディスクはどれを手にしても安心して聴いていられる。 それにボストリッジと入れた「冬の旅」などを聴くと、ますます陰影の深い音楽を聴かせるようになってきたのではないか。


という印象を持っていた人の実演を初めて聴く。
前半はシベリウスフィンランド)とグリーグノルウェー)というご当地もので、僕はどれも初めて聴く曲ばかり。もっともこの人のグリーグ『叙情小曲集』は僕のお気に入り盤の一つ。

彼が楽屋から現れたときに「えっ」と思った。CDのジャケットや宣伝写真で見てきた印象とあまりに違ったからだ。黒に近い濃い色の髪だと思っていたらかなり薄い色合い。これは染めているかもしれず、まあどうでもよい。意外だったのは写真では落ち着いた雰囲気で、年齢よりも老けた人に見えたのに、実際のアンスネスは一見して若いお兄ちゃんで、危ういばかりの繊細さが表情、歩き方、挨拶の仕方にはっきりと刻印されていたから。「ゆったりとした」という言葉と正反対の情念が彼がピアノに向かい座るまでの仕草に見て取れた。はっとして、そうか、こういう人が弾いていたのかと、その瞬間に何かを納得してしまった。シフとは違う自然な叙情と僕が感じたものは間違っていなかった。


前から2列目の、スタンウェイのしっぽの辺りの席に座って聴いたので、アンスネスの手は見えない。代わりに表情がすぐそこにある。わずか5メートル先の彼の表情、フレーズに合わせて大きく息を吸い込む音がはっきりと聞こえる。前屈みにピアノに向かう彼の身体の繊細な動きは彼の音楽そのものを絵にしているように見えた。彼の感性の基軸がロマン主義的な(と言いたくなる)叙情にあるのは誰もが聞き取る大きな特徴だが、それこそもしかしたらノルウェーの文化につながる何かなのかもしれない。シベリウスの小品5曲を休み無しで弾ききった後のグリーグノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード』は僕にとってこの日の白眉だった。彼の繊細さ、叙情性、力強さ、あらゆる特質はこの曲の演奏に結晶していた。ベートーヴェンならば、他の演奏家の演奏に期待できる。しかし、グリーグを弾かせてアンスネスを上回る人はいないのではないか。


後半はシェーンベルク「6つの小さなピアノ曲」とベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番。ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタにして傑作の誉れ高い32番。当然のことながら、ベートーヴェンがこの日の白眉となるはずだった。僕もこの曲を目当てにこの演奏会の切符を買った。しかし、もちろん後半、そしてアンコールで演奏されたメンデルスゾーン、ブソーニ編曲のバッハ、シューマンの秀逸な演奏を含めてたっぷりと満足感に浸った演奏だったけれど、この夜の頂点はもしかしたらグリーグにあったのかもしれないと思う。シェーンベルクの無調音楽がここまでロマンチックに聞こえるものかと驚いた。アンスネスシェーンベルクにもグリーグが表現しようとしたものと同じものを自然と嗅ぎ取るのだ。そしてベートーヴェンも、シューマンも。


根っからのロマンチスト。繊細さと強さ。EMIの熱い支援も得て、この人は大家になるのではないだろうか。2月8日(木)には、この日弾いたグリーグベートーヴェンに加えて『展覧会の絵』をトリに置くというすごいプログラムでツアー最後のリサイタルがある(東京オペラシティコンサートホール)。ピアノがお好きな方にはお勧めします。僕はあまりそういうことを言わない主義なのですが、これはおそらく聴いて損しないはずです。大ホールなのが、惜しまれますが。



アンスネスのホームページ
http://www.andsnes.com/discography.php


東京オペラシティのプログラム
http://www.japanarts.co.jp/


グリーグ:抒情小曲集

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