神保町をぶらり

帰宅途中、遠回りをして神保町をちょっとだけ散策した。古本屋めぐりの趣味はないが、神保町に行くと、そうしたくなる人の気持ちがそれなりに分かる。だんだんそんな気持ちが強くなってくるようだ。


『三上のブログ』の三上さんが、アメリカに滞在を契機に蔵書を処分したと書いてらっしゃったが、実は僕も同じように滞米の際に手元にあったかなりの本を処分してしまった。和書は欲しければいくらでも手に入る。図書館で借りることもできる。そう考えて思い切ってかなりの分量を手放した。きっと、これからも読み返すだろう吉田秀和吉本隆明などの著作は残し、例えば大江健三郎は半分以上捨てた。


ところが、読みたい本は出てくるもので、けっきょく何冊かは文庫で買い直したり、図書館で探したり。ところが、読みがはずれたのは著名作家の著作が書店の棚からなくなってしまう事態だった。例えば、開高健の『ロビンソンの末裔』や『片隅の迷路』、『玉、砕ける』などが入った短編集、倉橋由美子の桂子さんシリーズの『シュンポシオン』など。どれもよれよれ、くたくたの文庫本の状態で手放した。本当にまた読みたくなれば、そのときこそ、縁があったのだと思おうと心の中でつぶやくようにして。


開高や倉橋がこんなに簡単に読まれなくなるとは、そのときには思いもよらなかったわけだが、いま、これらの作品は文庫からも漏れ落ちている。いやはや絶版とは実に簡単なことなのだ。そして書物も死人と一緒で忘れられるのはあっという間のこと。いったん絶版の列に加われば、それがそれなりに評価を得た作品であったとしても次に浮上してくるのがいつなのか、ほとんど神のみぞ知るの世界である。


神保町のあちらこちらで、いくつものかつて馴染みだった本に再会し、そのたびに「あぁ懐かしい」と口をつきそうになる。学生時代の古本屋は古い本が置いてあるお店だったのに、いつのまにかそれは馴染みの作家、馴染みの本に出会う場所に変わっていた。自分の過去に向き合う機会を、古本屋はもの(書籍)との繋がりを契機に与えてくれるということなのだろう。若い頃の読書は常に未来に向かって意識を解き放つ時間だったし、古本屋は碩学の知恵が溜まっているおっかない場所だったように思うが、中年になるとそのニュアンスは少し、いや、かなり変わってくる。


自分が歳をとりつつあることをそんなかたちで実感した。でも、こういう加齢の効果は、悪くないと思う。今日は、前から読みたいと思っていた高橋英夫『疾走するモーツァルト』(1987年)を運良く700円で購入できた。


新編 疾走するモーツァルト (講談社文芸文庫)

新編 疾走するモーツァルト (講談社文芸文庫)