ヤンキー魂の発露

シリコンバレー精神』で梅田望夫さんが、シリコンバレーのビジネスの仕組みは弱肉強食のプロスポーツととてもよく似ており、言ってみればそれは“シリコンバレー・リーグ”だと書いている(「目に見えないメジャー・リーグ」)。梅田さんはこの比喩と一文だけではとても言い足りなかったと見えて、同書の中には同じ主題をさらに具体的で分かりやすく説明した「経済システムの『セリエA』化」という一編もある。その梅田さんがどこかで推薦していたいくつかの野球本の一冊が、マイケル・ルイス著『マネー・ボール』。めでたく文庫本になったので読んでみた。


この本の主役はオークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャーであるビリー・ビーンビーンさんは、多大の期待を背負って入ったメジャー・リーグで二十代後半まで日の目を見ない人生を送った後、球団経営を自らの生きる道と決め、アスレチックスのゼネラルマネージャーに登りつめ成功を収めた人物。彼はメジャー・リーグの球団が年俸の高騰でどんどん高コスト体質になるなかで、全球団中もっとも予算の少ない範疇に含まれるアスレチックスをヤンキースのような金持ち球団と互角に渡り合う常勝球団に育て上げる。


その秘密は、彼が採用したまったく新しい選手評価の方法論と、それに基づく選手補強方針にあった。ビーンは、スカウトが彼らの経験と直感で選手を評価する昔ながらの評価方法に大きなメスを入れ、選手の記録を頼りに数字による評価で指名選手を選ぶ新しいスタイルを採用する。ビーンのやり方が新しいのはそればかりでない。その際に注目される数字の活用の仕方がどの球団にもなかった型破りなものだった。打者でもっとも注目される打率をビーンは無視した。その代わりに彼が採用したバッターを評価するもっとも重要な指標は……。


固定観念を打ち壊せば、いままでよりもはるかに効率よく物事を進められる」(同書p151)が本書の大きなメッセージ。だから、文庫本の解説で丸谷才一がこんな風に言うのはよく分かる。

マネー・ボール』はいろんな世界で応用がきく。科学者が読んでも頭が刺激されるし、デザイナーが手に取つても参考になる。まして経済関係の人には非常に有益だろう。マーク・ガーソンという銀行家はこの本を評して、「単にマイケル・ルイスのベスト・ブックであるだけではなく、これまでに書かれた最上のビジネス・ブック」と言つたそうだが、これは決して褒めすぎではない。

ビーンの型破りさが痛快である。数字の重要さを理解し、選手補強にまれに見る戦略性を持ち込むと思えば、うまくいかないことがあるとあっという間に頭に血が上り、怒鳴りまくり、椅子を投げる。監督の頭ごなしに戦術を決め、球団を支配する。統計的な精緻さを持ち込んで選手を採るかと思えば、気分に応じて選手をトレードに出してしまう。こんなトップ、日本では絶対にありえない。アメリカの度量の広さに恐れ入る。


ビーンの物語を縦糸に、他の球団に無視されアスレチックスに採用された選手たちの物語を横糸にして、本書は進む。タイトル『マネー・ボール』が示すように、選手をあたかも株の銘柄のように売買の対象として冷徹な球団経営を進めるビーンと、彼によってメジャー・リーグの人生を送ることを運命づけられ、夢の舞台を目指して必死に立ち向かう選手たち。このコントラストが見事だ。これらに加えて、ビーンの理論的支柱となった統計理論を打ち出した風変わりなライター、ビル・ジェイムスの物語が彩りを添える。


Number風浪花節スポーツ・ノンフクションに飽き足らない方、辟易している方にはお勧め。野球が大好きな方、メジャー・リーグが好きな方ならなおさら。それに、丸谷才一さんが書いているとおり、ビジネス書として読みたい方の期待も裏切らないだろう。


それらに加えて、僕はこれをよきアメリカを語る物語として印象深く読んだ。ビーンを始め、この本に出てくる人々は例外なく異端・少数者なのだが、そうした少数者をちゃんと評価して引っ張り上げる文化と社会的な構造をアメリカは持っている。異端・少数者であることを怖がらない個人の存在を含めて、それこそがアメリカの素晴らしさだと思う。個人的には、良い思い出も、反対にどうしてもなじめない点もいっぱいあるアメリカだが、この一点についてはこの国を賛美することに僕はまったくためらいがない。メジャー・リーグも、シリコンバレーも、アメリカそのものだ。

マネー・ボール (RHブックス・プラス)

マネー・ボール (RHブックス・プラス)