『盤上の海、詩の宇宙』

この時期、ワシントンに住む友人のNが家族で帰国し夏休みを過ごす。年に一度、高校時代の仲間が集まって和気藹々とした半日を過ごすのが数年来の習わし。今日は横浜中華街でそんな気のおけない、自分にとってもっともリラックスできる時間をゆっくりと楽しむ。


話は変わって。
吉本隆明さんが田村隆一さんのことを取り上げた文章の冒頭で次のように書いている。

我が国でプロフェッショナルと呼べる詩人は、田村隆一谷川俊太郎吉増剛造の三人ということになる。(中略)このプロフェッショナルというのは、誌を職業としているという意味ともちがうし、まさしく詩が専門だといえるほどとびぬけていい作品をうみだしてたということとも、すこしだけ違う。詩を書くこと、あるいは書かれた詩が確実に生(生活とも生命とも違う。むしろ生涯というのに近い)を削った行為になっているというほどの意味になる。他の詩人はいい詩人もだめな詩人も、そのいいことにおいて、まただめなことにおいてアマチュアだといっていい。これは私の永いあいだの思い込みだ。(吉本隆明『新・書物の解体学』)

そのプロフェッショナルとしての詩人と、こちらもプロフェッショナルとしての棋士が、互いをプロフェッショナルとして敬いながら静かに対話を重ねる。秋深まった広葉樹の森ではらはらと色づいた赤や黄色の葉が舞い落ちるように言葉がどこまでも静かに積み重なっていく。『三上のブログ』で教えられた吉増剛造さんと羽生善治さんの対談集『盤上の海、詩の宇宙』は僕にそんなイメージを植え付ける。宗教家がかかわるならばならいざしらず、読むものの心に静けさを生み出す対談というのはなかなかないのではないか? それが「寄らば切るぞ」の気迫に生を投げ出す職業の二人によってなされていることに、僕は率直な驚きを禁じ得ない。

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060808/1155021518


高校生の頃に、現代詩を読む心の楽しさを覚えたものだが、吉増剛造はとてもかなわない相手だった。高校生の僕は、田村隆一を一読してその格好よさにメロメロになったが、吉増剛造の言葉はあまりに過激で、発せられた言葉が次々にぶつかり合い、その場で火花を散らしているかのような苛烈さにむしろ目を閉じずにはおれないように感じたものだ。普通の高校生の感性ではとても読めた代物ではなかった。その後、吉増さんの芸風がどのように変遷したのか、していないのか、吉増さんを読むことを放棄したまま長い年月を経た今、まるで知識のないままに僕はこの一文を書いているのだが、表紙を飾るその写真は実によいお顔をなさっている。


一方の羽生さんのことも僕はまるで知らない。親父の唯一の趣味が将棋だったこともあり、大山、升田、加藤、米長、中原、谷川まではNHK教育テレビを通じて将棋差しの風貌と対局の様を思い起こすことが出来るのだが、羽生さんの世代になると知識は皆無になる。ただ、将棋の歴史に名を残すであろう強さを持ち、棋界の外に住まう人が「羽生」という名前を持ち出したくなるような、普通の棋士にはない何かを持っている人だという漠然とした知識があるだけだ。そのような、全く知らない二人の対談を手に取るなどということは普通はない。今回、お勧めに従って本書を手に取ることになり、とても得をした気分だ。


この対談は、書籍として世に出る前にNHKが同じ題名で番組として放映したという。その時期、1997年は僕がちょうど日本を離れていたので、今に至るまで本のことも番組のことも全く知らなかった次第だが、そうであれば、この文章を読む方の多くが少なくともその映像を目にしていらっしゃるかもしれない。もしかしたら、これだけの内容だから、とても評判になったのではないかしら。だとすれば、内容について僕が何かを口にする必要はないはずである。異なる分野の、しかしとびきりの才能の二人が、明らかに違う種類の言葉で相手を照らしながらキャッチボールを続け、相手に対して、さらに何よりも読者に対して気づきを与えてくれるのは、大いなる僥倖である。どこでどう切っても静けさと強さが流れている感覚は、武満徹のピアノ作品を聴くのに最も近いと、本書を読みながら僕は感じ続けた。


武満徹:ピアノ作品集

武満徹:ピアノ作品集


ひとこと写真についてコメントしておきたい。この本には、対談中の羽生さんの写真が15枚、吉増さんの写真が15枚、見開きで左に羽生さん、右に吉増さんと並べて収録されている。羽生さんの写真はほぼシャープな画像であるのに対し、吉増さんのはその逆でわざと積極的にピンぼけかブレの効果を狙った画になっている。数えてみたら、羽生さんの写真でぼんやりしたブレの効果を狙ったのはわずかに2枚。これに対して吉増さんのそれは11枚が柔らかいブレの味を活かしている。見開きにおいてある2枚の画が片方はぴしっとフォーカスが決まり、片方はぼやーっとした中で笑っている構図を最初に見せられたときにはどきりとする。これを撮った荒木経惟さんにはそういう風に見えたということだろうが、そうした写真家の批評精神が嫌みにならずにこの本に彩りを添えている。


丸善本店で購入したのだけれど、文芸の棚を探したら、将棋のコーナーにあった。将棋の棚から買い物するのはひょっとしたら最初で最後になるかもしれない。