速いコミュニケーションの功罪

ブログを本格的に始めようと思い定めた時、ともかく3ヶ月間、毎日続けて書いてみようと考えた。きっかけは、橋本大也さんが主催したイベント『持続可能なブログ会議』に出席したことにある。これまで仕事以外のことで、毎日何か一つのことを意図的にやり続ける習慣は何一つ持ってこなかったし、短くてもいいから意味のある文章をブログに書き付けるとどう感じるか、何が起きるか、実験をしてみようと考えた。あらかじめ予定していた9月9日から4日間の中断期間まで、けっきょく一日はエントリーできない日があったものの、日中の仕事は忙しかろうがそうでなかろうが、ほぼ毎日一本のペースで書いてみた。


「ちょうど予定の三ヶ月が経ったなあ」とひとり感慨にふけっていたところ、ご自身のウェブ体験を吉増剛造さんの“遅いコミュニケーション”への出会いと対比しながら振り返る「「遅い」コミュニケーション」という三上さんの文章を読むことになった。

こうしてブログをやりながら、ずっと考えて来たことのひとつも、ブログによるコミュニケーションの「時間」のことだった。ブログに向かっているときに一体自分はどんな時の流れを生きているのか。無闇に急ぎ、急がされてはいないか。
■「遅い」コミュニケーション(『三上のブログ』2006年9月18日)


僕の主観は、明らかに「無闇に急ぎ、急がされ」る自分自身を感じていたので、三上さんの文章は自分に向けて書かれているのではないかとちょっとびっくりしてしまった。本来、この3ヶ月目は自分自身のためにだけ意味のある道標なので、ことさらトピックとして取り上げるつもりはなかったのだが、「「遅い」コミュニケーション」に刺激され、毎日をブログとともに過ごした感想を箇条書きで整理してみることにした。


【毎日続けるのは難しい】
「毎日」をノルマにすると、あらゆるノルマの持つ苦しさに見舞われる瞬間がブログ遊びにも訪れる。夜の10時をかなり過ぎて帰宅し、「ブログをかかなきゃ」と思うときなどがそれに当たる。ただ、僕はこの種の雑文書きは本質的に嫌いではないので、パソコンにいったん向かえば苦しいと感じることはまったくない。しかし、睡眠時間と読書時間は割を食う。そういう意味で、毎日のエントリーをノルマにするのは楽ではないし、長続きさせることを考えるならば正しい戦略ではない。そんな風に無理をし続けることの肯定的な意味は自分とブログにとって存在していない。


【毎日続けるのはたやすい】
とは言え、何でもありのブログでは書くトピックには困らないので、時間さえあれば、無限に書き続けられる気分にもなる。無限はかなりオーバーだとしても、一日一エントリーを続けていくのはできない作業ではないと分かった。このことを反省につなげるとすれば、そういう程度のお気楽なおしゃべりを選択していること(せざるを得ないこと)がおそらく問題なのだ。「毎日ブログ」に適したおしゃべりのスタイルは、人によって異なるとしても、確実に存在している。


【気分で書いてしまう】
一日一本、与えられている時間は1時間から長くて1時間半。これだと、頭に浮かんだ思いつきを字面に置き換える作業で終わってしまい、本来ならばそこから始まる推敲というプロセスはほとんどなくなる。エントリーによってはメモに近い文章である(ブログの文章とはそういうものかもしれないが)。また、文意が不明になるほどのことはなくても、レトリックがお粗末だったり、言いたいことがこなれて表現されていなかったり、てにをはが変だったりという乱れは当たり前のこと。そうした瑕疵を前提での勝負になる。ここで潔癖・完璧を求めると、寝る時間がどんどん減ってしまう。


【addictされる】
誰に強要されているわけでもないのに毎日書かないと気持ちが悪い、義務を果たしていないという感情にとらわれるようになる。義務感よりも、もっと根源的な情動とつながったところで、のべつ幕なしに書き続けたい静かな衝動に突き動かされるようになる。この感覚は明らかに中毒的だと思う。


【つながる感覚、切れたくない感覚】
トラックバックやコメント、ソーシャル・ブックマークなどを活用するお互い顔が見えない同士のコミュニケーションは、他のメディアでは決して経験できない新しい楽しさ、喜びを与えてくれる。同時に、それが毎日書いていたくなる理由にもなる。そして、つながるのが楽しいという感情は、つながっていないと細い糸は容易に切れてしまうという怖さの感情と表裏一体に結びついている。


【ブログ的トピックの存在】
ブログに向くトピックという意味。そういうものが一般的に存在するか否かは分からないが、少なくとも僕にとって、そうした文脈の存在を意識し続けることになった。ここが「はてな」の空間であることとも無関係ではないと思うが、読者には圧倒的にIT関係の方が多いと感じられる。だから、そうした話題、梅田さんのようなIT系の著名人をネタや表現の手段として活用しがちになる。当初、ブログの空間は無味無色かと思っていたが、ここには色も偏りもあるという思いを抱くようになった。客観的・統計的事実がそうだというのではなく、あくまで僕の主観の世界の話。僕はそういう風にして周囲を気にしながら書くタイプなのだと自分自身のこともよく分かった。


【外国語の情報紹介は難しい】
何度か英語とドイツ語のWebサイトの情報を書いたが、日本語の情報と違って、情報源のリンク先を明らかにするだけでは親切さが足りず、中途半端な感じが強くなってしまうと感じた。英語でもそうだし、ドイツ語情報はなおさらだ。もっと時間があって、翻訳を含めた丁寧な紹介ができればよいが、それができないなかで外国情報を扱うのはよろしくないかもしれない。


こんな感じですかね。1年続けると、また違った印象が出てくるだろうが、とりあえずの感想は以上です。


三上さんに教えていただいた、つまりブログのおかげで手に取ることになった吉増剛増さんと羽生善治さんとの対談録『盤上の海、詩の宇宙』の冒頭で、吉増剛増さんは羽生さんに向けてこう語りかける。

今朝も四時頃から起きて、宮古島で買ったこの『羽生ビギナーズ・バイブル』という本を読んでいました。六ページまで一ヶ月くらいかかって読んでいるんです。
羽生善治吉増剛造『盤上の海、詩の宇宙』(p9)

盤上の海、詩の宇宙

盤上の海、詩の宇宙


善し悪しを別にして、吉増さんが6ページを一ヶ月かけて読む時間と1時間かそこいらでぱたぱたとブログをフォントで埋める時間がまったく異なる価値を志向しているのは言うまでもない。考えてみると、職場にいる時間からブログを書き終える時間にいたるまで、僕は常に“無闇に急ぎ、急がされ”ながら均質な速いコミュニケーションの流れに浮かんでいる。こうした反省に立って、自分の自由時間を如何にレイアウトしていくか、ブログの時間をどのようにそこに組み込んでいくかはよく考えてみなければならない。『三上のブログ』を読んでそんなことを考え始めている。