生れてはじめての習い事

もう5か月もブログを書いていないということに気がついた。しばらくご無沙汰していたけれど、そんなに長くほったらかしにしていたとは思わなかった。

この間、何をしていたのかというと、自由になる時間を使ってフルートを吹いていた。ほぼ40年ぶりのことだ。何かやり始めると夢中になってしまうところは確かにあり、体調のよい時間帯に、体力向上と気分転換のために、ということだが、それ相応の時間を費やして、音はかすれる、指はもつれる、楽譜は読み誤る、息は絶え絶えという必ずしも快適とばかりは言えない時間を物好きにも過ごしてきた。とくに7月から9月の間には、短時間なりとも楽器を触らなかった日はなかったかもしれない。音楽をするのは、つまり好きなことをするのは文句なく楽しい。

で、興が乗ってしまい、プロの先生に教わることにした。楽器を専門家に教わるのは初めてだし、それどころかソロバンも、習字も、水泳も、ピアノも習ったことがなく、学習塾にも行ったことがない。そんな人間が、還暦直前の手習いで、急に思い立って習い事をすることにした。実は、ひと月前にメッセンジャーで下川さんとやり取りをした際に、フルートを吹ているとお話をしたら、「どこかで習っているのか」と尋ねられ、「我流です」と答えたあたりから、なんとなく「習う」という言葉が頭に残ることになった。家族の勧めもあり、流れに乗って今晩初レッスン。ともかく素人相手なりに基礎を鍛えてもらいます。

この話題はこれでおしまい。

大将が腹を切れと言えば、切れなければならない社会はなくならなくてはならない

米式蹴球の世界が俄然賑やかになっている。信じられないことにテレビのトップニュースだ。かれこれ12年間も選手を続けている我らが蹴球家によると、件の紅組大将が「イカれている」のは、業界では周知の事実だそうで、今回の出来事は「さもなりなん」を超えた場所で展開された一件のようである。

それにしても、日本人の100人に1人もちゃんと試合を見たことがないであろう弱小体育種目であるところの米式蹴球の一つの反則行為が、如何にそれが悪質であるにせよ、社会問題化するまでに至ったのには、いったいどういう理由があるからなのか。一歩間違えると恐ろしい社会が待っている感じはするし、それは自分が知らないだけで日本はとうにそういう社会に足を踏み入れているのかもしれないが、しかし、旧来は決して問題にならなかった不条理な権力者の横暴が、ITの手助けも借りながら暴かれるのは、お相撲さん然り、西洋相撲さん然り、官僚さん然り、それ自体はとてもよろしい傾向である。大いにやれと言いたい。

今日までの展開で皆が納得していないのは、紅組大将が逃げの姿勢を決め込んでいるから、大将の組織がなあなあでそれを許しているのが不愉快であるからだろうが、前述の米式蹴球家によれば、そもそも日本の米式蹴球は「大将が腹を切れと言えば、切れなければならない」というほどの超全体主義社会であるそうで、その話を聞くと不愉快さはさらに募る。

しかし、「大将が腹を切れと言えば、切れなければならない」不愉快さが存在するのは何も弱小体育の世界だけではないし、政治の世界だけでもない。ズームアウトとズームインを繰り返して我らがニッポンを見れば、それに近い不条理は日常のあちこちに転がっている。理不尽さに負けない個人が育つ社会がよい社会ではないかと思う。そういう社会が実現するためには、しっかりと言葉で相手に向かっていく勇気が当の個人に必要なのだが、そうした人が育つ教育が行われているかと考えると、個人的に見聞きできる限りにおいて、教育の現場にも子どもを抑え込む形優先の不条理がはびこっていないか、心配になったりもする。杞憂であればよいけれど。

ボチボチでんな

またまた大谷翔平選手に関連した記事の話になるのだが、こんなのがあった。


大谷翔平、左腕から初Hは先制適時打 エンゼルスは控えめ?称賛“ボチボチでんな”(2018年4月12日、THE ANSWER編集部)
https://the-ans.jp/news/21634/


4月12日のエンジェルスの公式インスタグラムが、大谷選手について「So far, so good!」をもじって「Sho far, so good!」という見出しの動画を公開したという、ただそれだけの記事。目を引いたのは、日本の記事が、この「Sho far, so good!」について「ボチボチでんな」という日本語をあてているところだ。

「So far, so good!」は、普通に訳せば「これまでのところはすごくいい」ということだと思うが、THE ANSWER編集部はこう書いている。

エンゼルス公式インスタグラムが「so far so good(ボチボチでんな)」をもじった「Sho far, Sho good!」とつづり動画付きで公開。


果たして、この「ボチボチでんな」が、「So far, so good!」の翻訳として成立するのか否かが非関西人の自分にはよく分からない。どうなんだろう?

日本語の記事の見出しは、「大谷翔平、左腕から初Hは先制適時打 エンゼルスは控えめ?称賛“ボチボチでんな”」なので、見出しをつけた編集サイドが「So far, so good!」の本来のニュアンス汲めていないのは明らかだが、ライターさんがどうしてまた「ボチボチでんな」とやったかのかは謎だ。この人は関西人で、「So far, so good!」という言葉を読んだとたんに自然と「ボチボチでんな」という言い回しが浮かんだのだろうか。大阪の人は「どうでっか?」と尋ねた相手が「まあ、ボチボチでんな」と返してきたら、「So far, so good!」という回答を得たと自然と受け取るのだろうか。状況によっては十分にありえるかもしれないが、果たしてこの記事でも、それが当てはまるのか。日本語は難しい。

ところで、ちょうど1年前の4月27日に12時間かかる手術を受け、長い入院をした。多くのブログの仲間にも勇気づけられて、なんとか術後2年めを迎えるところまできた。皆さん、本当にありがとうございます。今の気分を一言でいえば、「So far, so good!」です。

また大谷さんの話で恐縮ですが

また、大谷翔平選手の記事の話になるが、昨日のこの記事はよかったな。


■豊浦彰太郎『酷評から絶賛へ 米メディアの大谷翔平報道「手のひら返し」をどう解釈すべきか』(yahoo!Japanニュース 2018年4月10日(https://news.yahoo.co.jp/byline/toyorashotaro/20180410-00083810/


日本の報道のあり方をテーマにした内容で、日本の大谷記事の多くが「アメリカのメディアは開幕前には大谷を酷評していたのに、開幕後の大活躍で「手のひら返し」の賞賛が相次いでいる」と語っているが、それは違うのではないか。もちろん彼の能力を疑い酷評する記事はあったが、きちんとサンプルサイズを広げて様々な記事を読めば、模様眺め、本当に大谷を評価ができるのはこれからと語っていたのがアメリカの記事の主流であって、「手のひらを返した」というのは一部の媒体に対してしか当たらないのではないかという話。

これは、著者の豊浦さんの言う通りだと思う。直近で書いたように、日本のスポーツ新聞は極端な見出しをつけて読者を誘導するのが当たり前の世界だが、それが外国の話題だとハッスルに輪がかかる。しかし、外国からの輸入選手や新人に対しては、記者やコメンテーターにより様々な解釈が出るのがかの地では当たり前で、極端な意見を拾って「アメリカでは」というのはいい加減止めにしてほしい。

ここ一週間は大谷の陰に隠れてしまっているイチロー選手だが、彼に関する記事はその手の書き方が常態化していると言ってよいのではないか。どこかのメディアが「イチローのキャッチが素晴らしかった」と記事にすると、「アメリカが熱狂している」みたいな表題やリード文をつけるのは彼らの常とう手段だが、「熱狂」は今回の大谷騒動のような場合に使うのが正しい表現であるはずだ。

あと、次の記事のように、それって記事かよ、単なるアメリカの記事の翻訳じゃないか、というのもどうかと思う。ここまでくると、引用の域を超えているとしか感じられない。


■『イチローが米メディアに大谷翔平について語る。「ただ信じられない」』(livedoor NEWS 2018年4月11日)(http://news.livedoor.com/article/detail/14564025/


開高健の代表作『夏の闇』で、欧州で女一人、苦労を重ねてきたヒロインが主人公の日本人小説家に向かって、こんな風に毒舌を吐く場面がある。

日本の新聞にでてる外国報道の記事が各社とも似たりよったりでしょう。それも為替交換所みたいに仲間同士でやりとりした情報がネタだし、たいていはこちらの記事にでた記事の焼き直しよ。ひどいもんですよ。新聞記者というのは新聞にでた記事を書くから新聞記者というのよ。ここの新聞記者たちが笑っているわよ。


『夏の闇』は1971年、昭和46年の小説だが、それ以降外国報道と我々日本人の関係はそこいらの部分はあまり変わっていないのだ。もっとも、最近のWebの記事はちゃんと元ネタを明記しているから、およそ50年でその分だけは進歩したのかもしれない。1995年にWebが世の中に出た直後の頃には、アメリカの新聞やテレビを見ていないと書けないはずの日本語の記事があったりしたのを覚えているから、ズルはその頃までは確実に生きていたのだけれど。

日本でこういう焼き直し記事が存在できるのは、日本の読者が外国語を読めないと高をくくっているからだろう。読者の側にだって、日本語に訳してもらいたいというニーズは、今はまだかなりあるに違いない。しかし、AIがさらに発達し、外国語の翻訳が機械任せでまったくオーケーになる世の中はたぶんすぐそこまで来ているだろうから、その時、これらの記事はあっという間に絶滅するのではないか。マスメディアやライターさんにとっては辛い話だろうが、恣意的な情報操作の可能性が減る分、それは市民社会にとっては悪い話ではない。

日本のスポーツ記事の見出しを見て思ったこと

大谷翔平選手の活躍が大いに話題になっている。今もNHKが夜10時のニュース番組『クローズアップ現代』の枠で大谷選手を取り上げていたのを見たばかり。アメリカの新聞記事電子版を見ても大谷のニュースはここかしかにあり、日本人選手への注目の度合いとしては、すでに過去のあらゆるケースを超えているかもしれないと思えるほどだ。

お調子者の野球ファンとしては、アメリカの記事も、日本のヤフーなどの記事も片っ端から読んでみた。だいたい日本の記事は「アメリカのメディアがこう言っている」、「選手がこう言っている」という、ある意味お定まりの海外スポーツ報道のスタイルで、最初にアメリカの記事を読んでしまうと、それらに書かれていることばかりなので、どうしても二番煎じの感があり、あまり面白いものがない。

ところが、一つ気を引かれた見出しがあった。それがこれだ。

『日本流の技術で打った初ホーマー。大谷翔平が真に全米に迎えられた日。』(NumberWeb;2018年4月4日)
http://number.bunshun.jp/articles/-/830400?utm_source=headline.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=directLink


「日本流の技術で打った」というのは具体的にどのような技術なのか。それはアメリカ人の記者には絶対に書けない視点だと、期待して記事を読むと、しかしそれらしい記述が見当たらない。いつもの斜め読みが災いしているはずだと、もう一度読み直すと、つまり日本の記事ではあちこちで紹介されている事実である開幕直前でのバッティングフォームを改造が記事の中心的なトピックとして紹介され、「自分の中ではスタイル的には大きく変わってない」という小見出しとともに大谷の次のようなコメントが紹介されている。

「長くボールを見ることができてるんじゃないかと思います。(フォームは)見た目には大きく変わっていますけど、多少、動きを省いただけ。スイングの軌道を変えたりとかはしていない。
 自分の中では、スタイル的にはそれほど大きく変わってはいないんですけどね」

足の上げ方は変えたが、本人の意識としては、それは大きな変化ではないと語る部分が、デスクによって「日本流の技術で打った」という見出しにされてしまったということのようなのだ。なんともはや。

私はかれこれ10年もブログを維持しており、時々マイナーな媒体に記事を書いたり、勤め先の広報誌を作ったりしているが、いつも思い続けているのは見出しを付けるのが下手だということだ。つまりセンスがない。それは「見出しをつけなければならない」という意識とともに、あらゆる記事を書く毎に感じる引け目である。

センスがある者は、人惹きつける見出しを作り出す感性と技術を身に着けており、あちこちの記事に書いてある大谷のバッティングにおける踏み出し方の改善の話から、本人が「変えていない」と言っている事実に着目し、それはつまり、日本で高校野球プロ野球のファイターズで教わった技術を基にした「日本の技術で打った」のだという見出しを創造する。本文にはそれらしい記述はまったくなく、著者には「日本の技術」が頭にあったとは思いにくい。そこに魔法のスパイスがひとふり。「日本の技術とはなんぞや」と私のような獲物はすぐにそれに引っかかる。大したものだと思う。

私が見出しを付けるのが得意ではないという話はここまでで、本当に言いたいことは、取材で獲得した事実を無視した、あるいはテキスト本文の内容に無用の尾ひれを付ける見出しは嫌いだということだ。何故ならば、それは見出ししか見ずに本文を読まないものに確実にある種の間違った印象を与えることになるし、テキストを読む者にも、場合によっては間違った読み方へと誘導する危険性を含むからだ。テキストの内容を超えてサムシングを盛る見出しづくりは週刊誌やスポーツ新聞の得意技だが、それをするか、しないかで、その媒体は自らの立ち位置を明らかにする行為を行っているということは間違いない事実だろうから、真面目な記事には、天から降ってきた「日本の技術で打った」は要らない。

これはたかだか野球の話だから、そんなこと面白おかしければいいのだという意見は強くあるだろうが、大谷選手の個人的な能力や努力や創造力を、「日本の技術」という表現にわざわざ置き換えてバンザイする姿勢は、ちょっと精神的に軽すぎるし、要らぬおせっかいで気持ちの悪いものを感じる。アメリカの記事は大谷個人の凄さを問題にしているが、日本の記事は、基本は米国同様、大谷個人の並外れたこの力を取り上げつつ、すきあらば、我が日本人であるところの大谷を問題にしたくなるようである。後者のスパイスがちっとした味付けであったり、程度の問題であればいいのだが、日本人の意識や社会規範の寄って来るところにある集団主義と、自分たちが他者・他国との関係でどのような地位にあるかを常に問題にする序列意識が、海外で活躍する日本人スポーツ選手に対する記事のレシピには素材として明記されているようで、それが日本人の大好きな味付けなんだということは分かって入るが、大谷選手個人と私たち日本人共同体のもたれ合いを当たり前のものとした記事の書き方はせずに、「大谷という個人がすごいのである」という記事を書いてくれるライターが増えて、そんな記事を私は読みたいと思っている。

Facebookのこと

Facebookに登録したのが2009年頃らしいのだが、それ以来、まれにアプリを開いてみることはあっても、ほとんどまったくと言ってよいほど能動的には使っていなかった。つまり、コメントしたり、「いいね!」を付けたりなどしないで、単に最近どんな投稿があるかをしばし眺めるということを月に1度、半年に1度するといったぐらいことしかしない。だから、つい最近、5年も6年も前に「お誕生日おめでとう!」というコメントを何人かの方々からいだだいていながら、なしのつぶてでなんにもしていなかったことを発見したくらいである。ひどい。

Facebookは知り合い向けお知らせメディアだから、私のように別にお知らせも、知らせたいニュースもほとんどない人間には向いていない。それはそれで、既存の枠組みを面白おかしく活用するような才覚があれば話は別だが、そういった才能からは最も遠いところにいるので能動的に食指は動かない。それにFacebookは、そもそもあれやこれやお節介がすぎる。誰とかの誕生日だとか、フォロワーが何人になって友達の輪が広がっただとか、知り合いの知り合いにこんな人がいるだとか、なんだとか、かんだとか、だからどうしたと言いたくなる一方向の知恵を授けたがる。こんな奴が生身の人間で隣にいたら、到底我慢ができないだろう。うるさい! できるものならドロップキックをお見舞いしたいぐらいだ。できないけど。

しかし、世の中のメインストリームはFacebookInstagramなので、そういったところにしか出入りしていない知り合いに向けて「生きてるよ!」と言う代わりに、Facebookに向けて仕事絡みのトピックを書いてみることにした。更新は1か月に一度あれば御の字。「お友達の輪を広げましょ!」という動機はもとよりないので、面白おかしい内容はほとんどないはず。それぐらいの意気込みなので、続くかどうかは分からないが、おかげで人の投稿をよく見るようになった。週に2,3日以上はFacebookを覗いている。友人たちの身辺雑記を読むのはとても楽しいが、やはりFacebookの枠組みはどこかしっくりこない。

ジョン・アダムスの『アブソリュート・ジェスト』は面白い

1月27日(土)と28日(日)の2日、NHK交響楽団が、アメリカの作曲家であるジョン・アダムスの『アブソリュート・ジェスト』を演奏する。2015年3月にウィーンを旅行した時に、ちょうど作曲者のジョン・アダムス本人がウィーン交響楽団に客演をしていて、この曲のウィーンでの初演を指揮したのに立ち会えた。とても面白く、よくできた曲なので、現代音楽が好きな方はお聴きになってみては如何だろう。生でなくても、Eテレの『N響アワー』でもそのうち放送されるはずだ。

『アブソリュート・ジェスト』は日本語にすると『冗談の極み』といったことになるだろうか。ベートーヴェンの第9や、弦楽四重奏曲の第13番、『大フーガ』などのメロディを巧みに用いてというべきか、それらの曲を換骨奪胎してというべきか、オーケストラのために仕上げた現代曲である。

曲は大した長さではなく、たしか一楽章ものだったというぐらいの記憶しかもうないのだが、オーケストラの前に弦楽四重奏を座らせ、ベートーヴェンのメロディの断片を用いた「冗談」が繰り広げられる。何が冗談なのか、聴く人が聴けば即座に紐解けるのかもしれないが、正直なところ言葉の本当の意味はよく分からなかった。私が聴いたウィーンのコンツェルトハウスでのコンサートでは、ジョン・アダムスが演奏前にマイクを持ち、「私のドイツ語はほんとに片言程度で」などと言いながら、澱みなく自作の解説をしていたのだが、肝心な部分は語学力の欠如で残念ながらついていけなかったので、「冗談」は未だに謎である。たぶん、N響のコンサートに行けば、パンフレットに解説があるだろうし、『N響アワー』でも教えてくれるだろうから、3年ぶりの謎解きを楽しみに待つことにする。

楽聖ベートーヴェンの、シリアスなメロディを換骨奪胎すること自体が、クラシックの作曲家にとっては「冗談」以外の何物でもないのかもしれず、実際、曲想はベートーヴェンのメロディがそれと分かるように活用されつつ、素っ頓狂な和声で包まれたり、へんな転調をしたり、といったところは、たしかにシリアスな曲には聴こえることはないし、そのへんてこりんさ加減が実に面白い、ということは間違いない。「冗談」って、そういうものなのかどうか、そこは謎の極みではある。

指揮はピーター・ウンジャンである。それ誰だっけ、そんな指揮者いたっけと思ったら、かつて東京クァルテットで第一バイオリンを弾いていたピーター・ウンジャンさんなのだ。腕の故障で演奏家を辞めたと聞いていたが、N響に呼ばれるほどの指揮者になっていたとは知らなんだ。これもまたどんな演奏をするのか興味深い。

ベートーヴェンが好きで、現代音楽が好きだという変わり者のあなたには格好の楽しみになるはずだし、ベートーヴェンはそれほどでなくても、現代音楽が好きというあなたにも一聴の価値はある。ジョン・アダムスはオペラ『中国のニクソン』で最初に記憶にとどめた人が多いのではないかと思うが、今年、ベルリン・フィルがレジデンスコンポーザーに選ぶほどの人気作家になっているわけだし。ただし、あの巨大なNHKホールで、弦楽四重奏とオーケストラを組み合わせた作品が精妙に聴こえるかどうかは保証の限りではない。サントリーホールやタケミツホールならよかったのにと思う。そして、カップリングする後半の曲目がホルストの『惑星』で、これがお嫌いでなければ申し分ないのだが、個人的には『惑星』なんか聴きたくないよと思ってしまうので、放送でよしとすることにする。いずれにせよ、またあの変な曲を聴けるのが楽しみである。