大将が腹を切れと言えば、切れなければならない社会はなくならなくてはならない

米式蹴球の世界が俄然賑やかになっている。信じられないことにテレビのトップニュースだ。かれこれ12年間も選手を続けている我らが蹴球家によると、件の紅組大将が「イカれている」のは、業界では周知の事実だそうで、今回の出来事は「さもなりなん」を超えた場所で展開された一件のようである。

それにしても、日本人の100人に1人もちゃんと試合を見たことがないであろう弱小体育種目であるところの米式蹴球の一つの反則行為が、如何にそれが悪質であるにせよ、社会問題化するまでに至ったのには、いったいどういう理由があるからなのか。一歩間違えると恐ろしい社会が待っている感じはするし、それは自分が知らないだけで日本はとうにそういう社会に足を踏み入れているのかもしれないが、しかし、旧来は決して問題にならなかった不条理な権力者の横暴が、ITの手助けも借りながら暴かれるのは、お相撲さん然り、西洋相撲さん然り、官僚さん然り、それ自体はとてもよろしい傾向である。大いにやれと言いたい。

今日までの展開で皆が納得していないのは、紅組大将が逃げの姿勢を決め込んでいるから、大将の組織がなあなあでそれを許しているのが不愉快であるからだろうが、前述の米式蹴球家によれば、そもそも日本の米式蹴球は「大将が腹を切れと言えば、切れなければならない」というほどの超全体主義社会であるそうで、その話を聞くと不愉快さはさらに募る。

しかし、「大将が腹を切れと言えば、切れなければならない」不愉快さが存在するのは何も弱小体育の世界だけではないし、政治の世界だけでもない。ズームアウトとズームインを繰り返して我らがニッポンを見れば、それに近い不条理は日常のあちこちに転がっている。理不尽さに負けない個人が育つ社会がよい社会ではないかと思う。そういう社会が実現するためには、しっかりと言葉で相手に向かっていく勇気が当の個人に必要なのだが、そうした人が育つ教育が行われているかと考えると、個人的に見聞きできる限りにおいて、教育の現場にも子どもを抑え込む形優先の不条理がはびこっていないか、心配になったりもする。杞憂であればよいけれど。