ノット+東京交響楽団の細川俊夫『嘆き』、マーラー交響曲第2番『復活』

2ヶ月の入院など思いもよらなかった頃に購入していた音楽会のチケットのうち、5月に楽しみにしていたブルックナー5番の2つのコンサートは問答無用でキャンセルとなってしまった。人づてに聞くと、ともにいい夜だったようなので口惜しい思いをしたが、7月15日(土)夜のノットと東響の『復活』は久しぶりの生の音響に、思う存分揺さぶられてきた(於:ミューザ川崎)。

いい演奏会だったか? それは、とても。

何がよかったかといって、自分にとっては、生演奏の迫力に久しぶり立ち会えたことだろう。それだけで幸せなひと時だったが、指揮者が極端なまでな要求をぶつけ続け、それに対し演奏家が力の限り応えようとするという場面が次々と現れるこの日の演奏は、ほとんどすべての聴衆にとってスリリングな体験になったのではなかったかと思う。

この日のノットの指揮は、曲の様々な場所に作られたクライマックスで、オーケストラからあらん限りの詠嘆や絶叫を引き出そうとしていた。そもそも音量の振幅が大きい曲なのに、そのフォルテシモの凄絶さにはビビる。1回限りの生演奏でなら耐えられるが、録音で何度も聴くのは胃にもたれたり、飽きられたりということがなきにしもあらずのレベルだったので、ことさら「あぁ、生だなあ」と思ってしまったことだ。それに対してポジティブに反応するか、「やり過ぎだ!」と冷ややかな目を向けるかは、この曲に何を期待するのかで真反対になりそう。

それにしても、この日のノットは、どうしてそこまでやったんだろと言いたくなる激情型のアウトプットを目指した。過去にこのコンビで接した演奏会だと、『運命』やシューマン交響曲第2番など、通例よりも躍動的でスピード感が全面に出る演奏はいくつも聴いたが、タガの外し方はそれらとは桁違いで、同じマーラーでも、過去に聴いた9番、3番はもっと抑制的だったから、2番の曲想からして面食らうほどではないにせよ、「ほー」とは思った。

東響との関係に深化を感じたノットさんが、オーケストラに信を置いた上でのトライだっただろうが、ただ、演奏自体は必ずしも十分に柔軟なドライブがなされているというところまではいかず、各パートでもう少し余裕があればと思わされる瞬間が流れていく。翌日に、同じプログラムの演奏会が同じ会場で予定されていたので、おそらくそっちの方が、2度めの演奏の余裕が加わって聴き応えが増す演奏になるんじゃないかと終演後に思ったが、さてどうだっただろう。

それにしても、体調が回復しかけの、ホールにやっとたどりつく程度の体力しかない病人の耳に届く『復活』は、ギラギラとした生きるエネルギーが凝縮された曲だった。悲劇的な装いの第1楽章を含めて、曲の核にある強さ、自己肯定感にタジタジとなりながらの1時間半だった。とくに、『復活』の前に演奏された細川俊夫の『「嘆き」ーメゾ・ソプラノとオーケストラのための』という曲が、自死したドイツ表現主義の詩人、ゲオルク・トラークルという人の厭世的な手紙の一節をメゾソプラノが歌う(当日は藤村実穂子さん)、聴いてみると実に暗い、救いのない文学的なテキストを下敷きにした、冬の日の陰鬱な日本海を望むような作品だっただけに、そのコントラストは強烈だった。