小澤征爾の最新録音を聴く

新聞広告で発売を知って、次の日には読み始めた小澤征爾村上春樹著『小澤征爾さんと、音楽について話をする』は、久しぶりに、読み終わるのがもったいないという気分に包まれながらの読書となった本だった。

その本の6つのパートにわかれたうちの第2章にあたる部分が『第二回 カーネギー・ホールのブラームス』で、昨年、小澤さんとサイトウ・キネン・オーケストラカーネギー・ホールでブラームス交響曲第1番を演奏した録音を聴きながらの二人のおしゃべりが収録されている。その冒頭で村上さんは次のように語っている。

もう二十五年も前になりますが、あれも見事な演奏でしたね。音がどこまでも美しくて、音楽が目の前に鮮やかに立ち上がってきた。響きが今でもまだ耳に残っているくらい。でも正直言って、今回の方が更にすごいという気がしました。特別な何かがあるというか、ほかではまず見受けられない一期一会ともいうべき緊迫感がみなぎっていました。大病をなさって、やはり体力は落ちているだろうし、やはりそれがひょっとして音楽に影響するんじゃないかと、実を言えばちょっと心配していたんですが――

村上さんが25年前の演奏と言っているのは、80年代のボストン響との来日公演のこと。手兵を引き連れての小澤の凱旋公演ということで当時たいへん話題になったイベントである。

対談本では、この村上さんの感想のあとに、ライブ録音にまつわるトリビアルな話や、ブラームスの楽譜の話、サイトウ・キネン・オーケストラとのブラームス演奏にまつわる歴史の話などが続くのだが、これを読んでからというもの、やはりどうも当の演奏を聴いていないことが気になって仕方がない。別にいま、今月今夜にブラームスを聴きたいわけでもなし、第一「『世界のオザワ』完全復活! 奇跡のニューヨーク・ライヴ」なんて宣伝文句の帯が入ったライヴ盤がまともである可能性は、その種のものに何度も騙された経験のある身にしてみれば、その宣伝文句故に小さいに違いないと腰が引ける。特段に聴く必要はないんじゃないかと思いつつも、しかし、この本を読んでしまうと無視を決め込むのはなかなか簡単ではない。聴いて再読すれば、また新しい発見があるかもしれない、読書の楽しみは深まるかもしれない、それよりもなによりも、本当にそこまでの演奏が聴けるのであれば、そんな機会を自ら手放すようなもったいないことをしてよいのだろうか、などとたった一枚のディスクを前に優柔不断男は思い悩むのであったが。

ともかくも、そんなこんなで気になっていた当のCDを久しぶりに入った中古ショップで発見し、ブラームスもここ数年買ったことないねえ、などと独りごちつつ、師走の寒空の中を抱えて帰った。

と、ここまで書いて、このあとにどのような文章を続けるのが、たかだか場末のブログ上とはいえ、文章を書き発表することの意味を考えた場合にふさわしい表現かどのようなものか、心配になってきた。ブログ上で犯した何度もの間違いをまた犯すのはやめにしたい。この後は、立ち止まり、あらためて空を仰ぎながら、ポツポツと文字にしてみようと思う。

一聴し、直後に心に残った感想は、これは小澤さんの演奏の記録として貴重であったとしても、あえてCDに仕立てるだけの音楽的魅力を備えているかどうかについては疑問符がつく演奏だというものだ。音がよいとは言えないカーネギー・ホールでの録音であるせいか、音響的にCDとしてのアドバンテージがない。それに、オーケストラの音そのものに魅力が乏しい。サイトウ・キネン・オーケストラのディスクはごく初期のブラームスを聴いたことがあるだけだし、それが記憶として自分の中に残っている自信はまるでないので、「以前と比べて」というフレーズがどこまで意味をなすかは心もとない限りだが、僕が抱いていた、硬質で余裕には欠けるが鉄壁のアンサンブルを誇る、というサイトウ・キネン・オーケストラのイメージと流れてくる音とが合致しない。あらためて本に目を通してみると、設立当初のメンバーは大方入れ替わって別のオケになっていると小澤さんも語っているから、つまりそういうことなのだろう。あれとこれとはまるで別のオーケストラなのだ。

もちろん、常設のオーケストラも代替わりをすれば当然のこと音は変わる。だが、サイトウ・キネンのように20年でほぼ人が変わってしまうようなことはないし、若い音楽家が入り、桐朋のオリジナルメンバーのつながりが消えるこれからは、この非常設オーケストラが一定の質を保持していくのは容易ではないだろう。今は小澤さんがその中心にいて生み出している求心力が今後、どのようにして継続されていくのか。果たして同じ名前のオーケストラとして続けていく必要を聴衆が感じ続けるのか。僕にはよく分からない。

これを会場でライブで聴いたならば印象はまた違ったものとなるだろうが、日常的に聴くディスクとして、この演奏は安定感を欠いている。音楽は時間とともに深まりを見せることはなく、とりわけ第4楽章のテンポはぎこちなく、ある種の性急さが目立つものになる。この安定感のなさこそが、むしろ、この録音の生命なのかもしれないという思いが頭の隅をかすめる。そうなのかもしれない。安定感のなさはオーケストラのそれに求められるとしても、責任はオーケストラをドライブできない指揮者の責任にあるのは間違いない。言うまでもなく、このCDの発売にゴーサインを出したのは小澤さんであるはずだ。いったいここに指揮者は何を託したのか。僕が安定感のないと解釈した演奏の中に、音楽に一生を捧げている、日本を代表する指揮者のメッセージが込められている。僕には聴こえないものが表現されている。そう想像はしてみるものの、今の時点で僕の想像力が届くのはそこまでだ。

今言えるのは、これが「『世界のオザワ』完全復活!」と呼ぶような内容のものではまるでないという事実だ。この演奏には不満だという意味でも、また、そんなお気楽な宣伝文句とは無縁の、痛ましいほどの何かがここには記録されているという意味でも。

奇蹟のニューヨーク・ライヴ ブラームス:交響曲第1番

奇蹟のニューヨーク・ライヴ ブラームス:交響曲第1番