宮下誠著『カラヤンがクラシックを殺した』

素敵な音楽を奏でて大衆をうっとりさせ、その結果として巨万の富を築いて自信満々で生きる人生なんて糞食らえだ、という古典的アンチ・カラヤン本を読んだ。昔からカラヤン嫌いがやっていた議論の焼き直しなのだが、それをいま気がついたようにカラヤン生誕100年だか、没後20年だかに出してくるのは、それこそ商業主義的な嫌らしさじゃないんかねと皮肉の一つも言いたくなった。

著者いわく、「本書は故意にカラヤンの音楽を貶めようとして書かれたものではない」のだが、「混迷を極める現代のものの考え方や人間関係のあり方が、一体どこでそうなったのかを考えるとき、カラヤンの音楽は、いわば一つのケーススタディとして有効なのではないかと考え、あくまでカラヤン、或いは彼の生み出した膨大な音楽の背景にある「ものの考え方」や価値観、世界観を試みに批判(おこがましいがカントの言う意味で)しよう、そう考えたまでである」(p33)のだそうだが、続いて語られるのは凡庸な、おなじみ大衆社会論の焼き直しでしかない。その象徴としてカラヤンがいるのだという、「これはこれは。40年前にやってください」な議論である。

この著者が間違えているのは、個性的な音楽をつくる才能とビジネスで成功する才能は別、音楽の才と人格とは別物だよということを理解していない点だ。カラヤンはビジネスマンとしての才能に恵まれていた。そしてクラシック音楽産業の頂点に立って、これ以上ない権力を得て、巨万の富を築いた。そのことと、「カラヤンの音楽は美しいが空虚だ」という見立ての間に因果関係があるかのように語るのはナイーブにすぎる。嫌なやつが美しい音楽を奏でる。嫌なやつが熱い音楽を奏でる。豊かな心を持った人間が凡庸な音楽を奏でる。どれもありえることだ。僕自身も含めてそうだと思うのだが、日本人の宗教観や人生観は、そうした現実を許したがらない。心技体、大相撲、朝青龍、みたいな。このブログで一度書いたけれど、僕も彼が生きている間はカラヤンが嫌いで仕方がなかった。ビル・ゲイツが嫌い、しこたまWindowsで稼いだうえに格好つけやがって、というのとカラヤンが嫌い、しこたまレコード、CDで稼いだうえに格好つけやがって、という心象はまったくパラレルだと思う。

この点、音楽そのものと音楽産業とを切り離して論を展開したノーマン・レブレヒトの『巨匠神話』は、僕には納得がゆく。そんなに汚い裏話を表に出さなくても、と後味がよくないことは別として、カラヤンに代表される音楽産業のあくどさに文句を言うのであれば、こうあるべきだろう。

カラヤンがクラシックを殺した』では、第二章に「ブルックナーカラヤン」と題した文章があるが、ブルックナーはこういう作曲家で、だからこうでなければならず、しかるがゆえに演奏家Aのやり方は間違いで、演奏家Bのやり方は間違いで、演奏家Cのやり方は間違いで、ああ、ブルックナーは難しい、となると、ほとんど宇野センセの世界、個人的な好みの押し売りでしかなくなってしまう。宇野センセは、そこに嫌みがないので、ファンがつく。ひとつの芸になっているのだけれど。

いくつかのクラシック音楽系ブログを目にしての雑感だが、いまのリスナーには、以前に比べてさまざまな演奏様式の存在に寛容で、その違いを楽しむ人が増えているのではないかと思う。カラヤン的存在は、まだメディアのパスが限られ、情報操作がらくちんにできた情報化途上のアイコンであって、マルチチャネル化した現在にはそういうのは存在しないんだと考えた方が自然である。


カラヤンがクラシックを殺した (光文社新書)

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巨匠神話

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