肩の力を抜いて、本気で

『米と僕』のスガハラさんがしばらくパソコンやブログから距離を置く生活をしてみたいと、肩の力を抜いた自然な調子でお書きになっています。文章は軽いタッチですが、裏に込められている意思にはきっぱりとしたものがあり、要はいまは仕事に時間と意識を集中すべき時期なので、些事は切り捨てたいというお気持ちのようです。


■みんなげんきー?ぼくはげんきー♪(『米と僕。』2009年1月13日)


まっすぐなメッセージに感心し、賛同の意を表したいと思いました。時間は有限ですから、自分自身に納得できる日常を心がけることはとても大切です。

同時に、ブログのない日常がしっくりくるようになったら、今度はその日常を、いっそう肩の力を抜いて、ブログで紹介してもらえるとうれしいなと思います。ネタをつくるとか、面白い話を読ませるといった意識ぬきで、スガハラさんの単調な職人としての日常が読めるようなブログを待ちたいというのが私の希望です。猫ちゃんの話は抜群にかわいいし、面白おかしい話題もいいのだけれど、私が文字にして欲しいのは、文字にしても面白くも何ともないスガハラさんの単調な仕事のような気がしています。それらをサービス精神抜きでときどき報告してもらえるとうれしいなと、この機会を使って勝手な希望を申し述べさせて頂きます。

私の場合、ブログを始めた頃にはマス媒体の個人版を手がける意識がとても強かったのですが、書いているうちにその意識が変わってきました。ブログを書くのは雑誌の記事や論文を書くのとは違うという思いがいつの間にか増していき、メディアに作品としてのテキストを提示するのとは異なる規範意識、つまりこれは井戸端会議だ、ブログは人とめぐりあえてなんぼだと思う意識が増してきたのです。そうなると文体や文章構成をことさら意識することが減ってきて、たくさんの人に読んでもらいたいとか、はてなブックマークを欲しいなどといった欲望がなくなってきました。むしろ、読んでもらえる人は限られてよいという意識が強く、その点では自分の中でブログがお友だちメディア化した感はありますが、とはいえ、同時にここが公道であるという意識は持ち続けるようにしています。未知の誰かとつながる可能性がある、いつかどこかでビールを傾ける相手がいるということが、ブログ書きの原動力と言ってよいかもしれません。

私が大好きなお話に中島敦の『名人伝』があります。子供の頃、国語の時間に読んだ方も多いと思います。弓の業を究めた名人の話で、その主人公である紀昌はノミを数年見続けると馬ぐらいの大きさに見えるようになるなどというマンガチックな修行を何年も続けた後、ついには都中に名がとどろく名人になります。名人と崇め奉られる域に達した彼は、弓を射ることをもはやしません。老境に達した彼は、最後には弓矢を見て、「これは何をするための道具ですか?」と尋ねるようになる、それがまた彼の名を不朽のものとするという寓話的作品です。倉橋由美子は、『大人のための残酷童話』という童話をパロディ化した連作の中で、この『名人伝』をとりあげ、実は紀昌はたんなる呆けだったという身も蓋もない話をでっちあげています。倉橋の批評精神と文章力をてっとりばやく味わうのにもってこいの作品だと思います。

紀昌の話は、まじめにとりすぎると肩が凝ります。倉橋由美子は、紀昌は呆けていたというはぐらかし方をしたわけですが、そうではなくて、もう少し真面目に、同時に不真面目に『名人伝』のメッセージをとると、こんな風にいえるようにはならないかと私は考えます。つまり、道具は、別に紀昌ほどにつきつめなくとも、一生懸命に使ううちにそれ自体を意識しなくなる。あるいは目的と見えたものは、本気でやっていると、当初目的と見えたものを無意識に乗り越えている。本質的にそういうものではないかということです。ブログだってそうじゃないでしょうか。いつの間にか書き込みの頻度が減り、あるいは使う期間が限定され、しかし、本人の気持ちは満たされている。それが正しい道具との向き合い方のような気がします。

李陵・山月記 (新潮文庫)

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大人のための残酷童話 (新潮文庫)

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