中国のプラグマティズム

昨日の、オリンピックの話の続き。テレビ中継で見る限り、中国のオリンピックに現地色が薄く見えるという話の続きである。

僕が思ったのは、中国はプラグマティックな国、目的のためにはとことん手段を使いまくる国だなということだ。事情に疎い素人が想像でものを言っているだけなので、どこまで当たっているかはまるで確証はないが、思うにあれだけ洗練され、先端的な大会をデザインし、かつスムーズに運営しているとなれば、欧米の資本、こうしたイベントの開催の手練れがかなり深くまで参画しているはずだ。「Take Me to The Ball Game」は普遍の裂け目からアメリカが透けて見えている例だが、たぶんそういうことだろうと思う。

そうだとしたら、これは日本との比較においてまったく異なる思想が実学の中で活きている例だと言うべきだろう。日本はそんな風に外国資本をうまく使うことができない。何故なら常に大きなコミュニケーション・ギャップが内と外の間に横たわっているからだ。これは必ずしも英語が下手でえすというだけの話ではない。うまく概念化できているわけではないが、感じるのは人を使うということに対する思想がなっていないということだ。日々の仕事で使われる側にまわってみると強く思うことだが、人を使うのがとことん下手である。自分を振り返ってもそうだと認めないわけにはいかない。契約の概念が形だけで、強い者はひたすら強く、弱い者はひたすら弱く、アメリカ人なら「It's not fair!」と声を荒げるような暗黙の規範が国を支配している。これでは国際的な倫理のスタンダードにうまく乗っかるはずがなく、海外資本とうまく仕事ができるはずがない。国際化が進んだ製造業の大手なら、そういう辺りも多大の経験を積んできちんとできるのだろうが、日本の領海の内側だけで仕事をしているその他多くの日本人には、いまだに外人サンと付き合うのは容易ではない。

さらに言えば、コミュニケーションをとれないという前には、どうもコミュニケーションを取りたくないという、語られない明確な意志が存在しているように感じられる。せっかく自分たちでやりやすいように仕組みを作ってきたし、既得権を荒らされたくないし、そんなこんなでよその人と付き合うなんて面倒くさくてやってられないし、というスタンスである。明治維新以降も日本が変わってきたのは、そんな日本的志向を嫌う先進的かつ変わり者なトップがいてくれたからで、それは今の時代もほとんど変わっていないのじゃないか。

振り返ってみれば、この10年、20年、中国はそうやって猛烈な勢いで海外資本を流入させ、国の成長を軌道に乗せてきたわけで、中国のトップ層にとってお雇い外人を使うなんてことは朝飯前なのかもしれない。要はモジュールとして個別の要素をうまく組み合わせて仕事を組み立てる力みたいなものが、彼の地の人々には備わっているし、アメリカなどでもそうだと思う。それに比べて日本はどうなんだろうか、という話である。