千年の昔から

勢川びきさんの四コマ漫画は、見た目は軽いが突きつけてくるものはいつも深い。なぜかと言えば、テーマのある場所にまっすぐに突き進む作者の問題意識が深いところに根ざしているからだと思う。それに勢川さんは自分の気持ちを表出することにためらいがない。これはすごいことだと、いつも感心してしまう。

最近では、一連の米国出張ものに続く、この回『そして、また…』を読んで、あらためて考えさせられてしまった。米国出張から帰った漫画の主人公が、必ずしも快適とは言えない日常にすっぽりと収まって怒ることもしない日本人の群れを前にして憤懣の声を上げる、という内容である。

このブログでも12月に話題にしたが、僕自身も、アメリカ生活が長い日本人の方から「こんなにさまざまな社会問題が起こっていることが報道されているのに、何故、日本人は怒らないんだ」と尋ねられたばかり。つまり、アメリカ辺りで生活をしている人、したことがある人にとって、東京の中で生きている日本人の日常にはアメリカ的感性・生き方に照らすと、到底信じられないような部分があると感じるのは、かなり自然な反応だと言ってよいのだろうと思う。

そこで、数日翻訳の話を取り上げたことも手伝って思い出したのが橋本治である。我々は日本人の国民性を一般化する際に、それが農耕民族的であることをよく引き合いに出す。日本人が農耕民族的であるのに対して、西洋や中国は狩猟民族的であったり、騎馬民族的である、というレトリックを用いる。橋本治が、彼の日本人論の中に書いていたことで「へぇー」と思い、またとても勉強になったと思ったのは、日本人の組織の中での従順さを通りいっぺんに「農業やってたから」に求めるのではなく、律令制導入以降の組織のあり方にその根があることを論じた文章を読んだときだった。『窯変源氏物語』や『双調平家物語』など古典の現代語訳を手がけ、古典の素養豊かな橋本の知識とその解釈の力はすごいものだといつも驚いてしまう。

書名も覚えていない、正確な内容も覚えていないので、ご存じの方は間違っていたら訂正をしていただきたいと思うが、橋本がその著書の中で言っていたと覚えているのは、奈良、平安時代律令政治が始まり宮仕えという制度ができたことによって、その仕組みの中でよい思いをするために上役におべっかをつかい、上役の個人的な世話までして、その結果認められて出世できるという現実と行動原理が当たり前になっていったという古典からの読み取りであった。日本人の体制への従順さを農耕に求めるのではなくて、長い長い官民の行動原理が今に至るまで生きているのだという指摘に、「なるほど!」と膝を打ちたくなる気分だった。それは「農業やってたから」よりもはるかに合理的な説明だ。

そして一挙に気分が重たくなった。俺が子供の頃からずっと「なんとななんねーかな」と心の隅に抱えてきた、日本的集団主義の不条理は、なんと今から一千年以上前から続いている日の出づる国の行動原理なのだ! そんなに簡単に変わるようなものではない、たぶん。

その話を読んだのは数年前だが、「日本の社会が嫌だったら、文句言っていないで、とっとと日本の外で生きる道を選ぶべきなんだろうな」という感想が、自分の中で確信に近いものになった。日本には日本のやり方があって、それは千年の歴史を経てきたものなのだ。それが日本の外では通じない考え方であることが、地球が狭くなった今、ほんとのほんとに問題になっているはずであり、勢川さんの憤懣につながっているはずなのだが、こんなことを書くとある種の人たちからは、単なる外国かぶれだと切って捨てられるのが落ちなのである。たぶん。