ミシュランガイドに関連してもうひと言

昨日から疲れ気味。仕事のことで大あわてだったり、がくっとなったり、心が休まらない。誰かに大きな声で愚痴を聞いてもらいたい気分だ。そんなときに帰宅して、『三上のブログ』(id:elmikamino)で書体の話を読んだり、『Emmaus’』(id:Emmaus)で紹介されているモノクロ写真を見たりすると、気持ちが静かになって、救われた気持ちになる。毎度のことながら、ブログのありがたさを感じる。

昨日話題にしたミシュランの東京ガイドの話に関連してもうひと言。
「どれがいい、悪い」という話が好きなのは、どうやら洋の東西を問わない人の楽しみ。でも、日本の場合、そういう評価をものすごくまじめに受け取る癖が強いように感じられる。音楽だって、食だって、一定の技術を軸にして善し悪しを付けるのは難しくないが、それに加えて選者の趣味に関わる部分があるから、どうしたって評価は誰もが納得するものにはならない。そこでは「何を目指しているのか」に関しては何も問われていないからだ。これらのガイドに関しては、そういうもんだと割り切って情報を利用する態度が本来要請されていると思うのだが、実際には「なるほど三つ星というのはこういうものか。よいものというのはこういうものなのだな」と、その評価を基に情報の秩序立てをする態度が世の中でどんどん強固になっていく。こうなるともういけない。自分よりも世の中が先に存在するような錯覚が、錯覚に思えなくなってくる。とたんに世の中が息苦しくなる。

パリのレストランを熟知しているけど、ふだん、みそ汁飲んだり、芋の煮転がしを食べたりしていないフランス人の選ぶ日本食はこんなのなんだ」
ぐらいに受け取っておけばいいのに、と僕などは思う。自分がブログで書いたものを読んでも感じるけれど、あの演奏がよいだの悪いだのという話は、そもそもそれ自体はあまり意味がない。それがどうしてよいと感じられたのか、どうしてよいと思うのかを掘っていかないと、どんなレベルの批評にもならないだろう。それがミシュランや、例えばクラシック音楽ならペンギン・ガイドならば大きな意味が出てくるのか。そうだということになってしまえば、もう黙るしかない。

今日は楽しみにしていた東京カテドラル聖マリア大聖堂でのスペイン音楽のコンサートの日。あの立派な教会に行ったのは、1982年頃(?)に開催された朝比奈隆と大阪フィルによるブルックナー交響曲第8番を聴いて以来。もう二十数年前のことになる。最近は、何かをすると昔のことを思い出し、ほんとうにそんなに時間が経ったのかと驚くことばかり。