『ポケモン』のおにぎりとドーナツ

昨日書いたmmpoloさんのエントリーを媒介にさせていただいた翻訳に関するモノローグは書いていて楽しかった。今日も、その続きを少し。

mmpoloさんの引用によれば、亀山訳の『カラマーゾフの兄弟』を論じる際に沼野充義さんは、ロシアの食い物をなんと訳出するかという例を挙げているそうだ。それで僕が思い出したのは、アメリカで観ていた『ポケットモンスター』。90年代後半、かの人気アニメがアメリカでも爆発的なヒットを始めた時期に僕は駐在をしていて、自分の子供やその同級生が「ポケモン」「ポケモン」と連呼する事態に出会った。日本人の僕の耳には「ポッキモン」という風に聞こえたっけ。

所変われば品変わるのたとえにあるとおり、日本と違い、アメリカでは朝、子供が学校に出かける直前、朝の7時、8時といった時間帯がテレビの子供番組タイムになっている。ポケモンも7時だったか6時半だったか、そんな時間に毎日放映されていた。ポケモンがなぜアメリカで流行したのかに関しては、それなりの分析がちゃんとあるはずだから、ここで素人がなにをか言わんやだが、ひとつ気がついたことがあったのは、あちらで流行っていた日本製子供番組はみな日本を上手に消しているものだったことだ。日本の風俗がほとんど描かれていないのである。ポケモンはその典型例だったと思う。のみならず、ポケモンには、砂漠など、どこかアメリカっぽい風景が明らかに仕込まれていると僕は感じていた。

その逆が『セーラームーン』だった。「月に代わって、お仕置きよ!」である。ニュース番組で「次に日本から来るアニメがこれ。ポケモンに続いてヒットなるでしょうか」と紹介されていたのを見て、どうなんだろう思ったが、結果的には全然流行らなかった。その『セーラームーン』は、ポケモンと逆に日本風の風景が頻出する絵づくりに特徴がある。ドラえもんと一緒で、ブロック塀の町並みや、畳にコタツといった日本情緒が満載である。これに対してポケモンもそうだし、完全に舞台をアメリカに移した『パワーレンジャー』もそうだが、アメリカでヒットした日本の子供番組は完全に無国籍ないしアメリカ的場面設定が導入されている(僕が駐在を終えた後に大ヒットになったのは『遊戯王』だそうな。「俺のターンだ!」って台詞が飛び交う遊戯王には、もとから英語文化ありきのイメージがある)。

ところが、『ポケモン』を観ていて(僕はテレビがついていると、子供と一緒にどんな番組でも観てしまうので、子供の成長とともにいろいろなテレビ番組を観てきた)、翻訳不能の「日本」が登場する場面に出会った。登場したのは「おにぎり」だった。主人公たちがおにぎりを話題にするシーンを、少なくとも2回僕は観た。面白いことに、その二度のシーンで異なる訳語が充てられていた。三角形の海苔を巻いた白黒のおにぎりを話題にする際に、一度は「Rice Ball」という訳語を用い、別の回には「ドーナツ」という訳語が使われていた。白黒のおにぎりに対して「ドーナツ」はきついなあと思ったが、アメリカ人の子供たちにすんなりとストーリー展開を受け入れてもらうための苦肉の策としてはありだとも思った。

固有の風物は、もっとも翻訳で悩むことの一つなのではないかと思う。外国、あるいは架空の土地を舞台にした映画では、視覚的なエキゾチズムを演出する風物は物語を作り上げるうえで重要な小道具になるが、外国語の翻訳では、訳注という無粋な手法でも用いない限り、著者が説明していないことで読者が知らないことを伝えることはできない相談だ。そこにあるのがおにぎりであることは重要であるのか、ないのか。おにぎりがドーナツに化ける翻訳の世界にぶつかることによって、物語の持つ意味構造の重層性を知ったと言うことはできると思う。

文学やアニメの世界に限らず、外国と接する際に僕らは異なる文化の間に存在する大きな亀裂を場面に応じて意識させられる。意味を伝えたい、それによって何事かを前に進めなければならないとなれば、あるときはおにぎりと言い、あるときはドーナツと言うことによって、あるいは下手な脚注のような長い説明に汗をかきながら、悪戦苦闘をすることになる。それはとても楽しいことではないか! 「プリヌィ」というロシア料理が「薄餅」になり、「パン・ケーキ」に形を変え、「ホットケーキ」から「クレープ」にまで変容する。これも楽しい!