梅田望夫はかつての村上春樹なんじゃないかな

買い置きしていた梅田望夫著『ウェブ時代をゆく −いかに働き、いかに学ぶか』にやっと到達した。昨晩から少しずつ読み始めているところ。

村上春樹の『走ることについて語るときに』を読んだ次に『ウェブ時代をゆく』にとりかかるのは、読書のつながりとしては悪くないと思っている。悪くないどころが、ある種の理想的な組み合わせかもしれない。ジャンルは違うし、文体は違う。二人の著者の性格もおそらく異なるだろう。しかし、この二人が若者に対して果たしている役回りにはとても似たものがあると僕は思うので、おさまりがいい。同じ心の波長を維持して次の読書に移っていける感じがする。

朝日ジャーナル』(という名の、『平凡パンチ』『プレイボーイ』とともに若者は誰もが手にした雑誌があったんだ、と若い方には語っておこう)の末期、筑紫哲也が編集長だった時代に「若者たちの神々」と題するシリーズのインタビュー記事があった。当時、若者に支持されていた著名人の下に筑紫哲也が出かけていって話を聞くグラビアの特集で、そこに村上春樹が登場した。村上は当時からほとんどマスコミに顔を出さない人だったから、僕はそのとき初めて彼の風貌を目にした。筑紫と並んでうつむき加減に歩く写真を見て、こんな小柄な人だったんだ、と驚いたのをとてもよく覚えている。神経質そうな表情も印象に残った。

仮にいまの時代に「若者の神々」を特集すれば、梅田望夫を呼ばない編集者はいないはずだ。そのことを言葉にしておこうと思って、このエントリーを書きつけた次第。僕らの時代までは、何か社会的な事件が起これば新聞で知識人を代表してコメントが求められるのが作家だったし、若者がメッセージを求める対象としても作家は頼るべき人たちリストの最前列にいた。そうした役目を担っているのが、今は経営コンサルタントたる梅田望夫、技術の可能性を熱く語る梅田望夫なのだから、時代は確実にめぐっているというわけだ。

村上春樹の処女作『風の歌を聴け』の終盤、この小説のクライマックスといってよいだろう箇所にこんな言葉が置かれている。この本の脇役あるいは狂言回しという立場の地方ラジオのディスクジョッキーが番組で視聴者に語りかける、という状況設定の中で、他の文より一段大きいゴシック体の活字で記述されている言葉。

僕は・君たちが・好きだ。

梅田望夫に対し若者の圧倒的な賛同の声が湧き上がったのは、彼を支持する若者にとっては、彼がまさにこのDJのような存在に見えるからなんじゃないかな。僕にはそんな風に感じられる。