ワールド・トレード・センター

写真は我が家の壁にかかっている記念の一枚。1999年の春にブルックリン橋のたもとで当時まだ小さかった3人の子どもたちと一緒のところを妻が撮ったものだ。この後、私たち家族は、後ろに写っているブルックリン橋をわたってワールド・トレード・センターの展望台に登った。ニューヨークの郊外に住んでいた当時、子ども達を連れてマンハッタンに出かける機会は、毎年暮れのサーカスに出かけるのを除くと数えるほどしかなく、数ヶ月後に迫った帰国の前に子ども達にもワールド・トレード・センターに連れて行こうと昼間のマンハッタンに遊びに来たのだった。



日本語よりも英語の方が第一言語化していた末っ子は、ワールド・トレード・センターを土地の人たちと同様「Twin Towers」と呼んで喜んでいた。この年、プロバスケットボールNBAニューヨーク・ニックスを決勝で破って全米一を獲得したサンアントニオ・スパーズのスーパースター、デイビット・ロビンソンとティム・ダンカンの長身二人組がサンアントニオの「Twin Towers」と呼ばれてバスケットファンの話題になっていた。バスケット大好きの末の息子は、本物の「Twin Towers」に登れるのを喜んでにこにこしていた。最上階の展望台「トップ・オブ・ザ・ワールド」で、まるで空に浮いたような気分になりながら、マンハッタンの街並みや、はるか下の海上に浮かぶ自由の女神を見下ろしていた私たちは幸せだった。


仕事では、ビルの中にオフィスを持っていた有名投資銀行主催の通信事業者のカンファレンスが年に一度、展望台のすぐ下、107階にあるレストラン「ウインドウズ・オン・ザ・ワールド」で開かれており、その折に足を運んでいた。業界大手の通信事業者の有名経営者が数多く顔をそろえ、その後、例の会計粉飾事件で世界中の注目を浴びることになる通信事業者ワールドコムのエバース会長のランチ講演を聴いたりしたのを鮮明に覚えている。以前一緒に仕事をした銀行員のNさんが、やはり当時駐在をしており、彼に案内されてかなり高い階にあった銀行のオフィスに案内してもらったりもした。事故の直後、被害者の名前にNさんがいないのを確認してほっとした。


あのビルが崩れ落ちる映像の非現実感は、いまだに忘れられない。当時契約していたCNNを、横浜の自宅でたまたまつけっぱなしにしていた見ていた夜の10時過ぎ。いまだにそれが本当に起こったことなのかどうか信じられない気分が私の中ではまだ続いている。最後にニューヨークを訪れたのは事件の一年前の2000年。私のニューヨークは、未だにその時のままだ。カンファレンスの際に、レストランのトイレで手を拭くためのタオルを渡してくれたアジア系の小柄な女性はまだ米国に来て間がなかった。彼女はスリランカから来たと言っていたはず。いや、フィリピンだっただろうか。あれから二年後、彼女はまだあそこのレストランに勤めていただろうか。あの日、たまたま非番ではなかっただろうか。
かつて住んでいたエリアでは、やはり肉親や知人がWTCに勤めていた人々は少なからずおり、地域は悲しみに沈んだと聞いている。日本から出張者が来た際に仕事をお願いしていた通訳の方は、その日仕事でビルの上部階におり、崩れ落ちる直前に脱出したと、当時一緒に仕事をしたKさんから聞いた。


しかし、そうした話を耳にしてもなお、私のニューヨークでは、市庁舎にほど近いCDショップに買い物に行く際、常に仰ぎ見ていたワールド・トレード・センターが、子どもたちと屋上で記念撮影をしたワールド・トレード・センターが、ミッドタウンの勤め先の窓から朝日に輝いていたワールド・トレード・センターが、いまも摩天楼の群れを空に向かって牽引するごとく屹立している。ワールド・トレード・センターのないニューヨークに行ってみたいとは思わない。物見遊山でグランド・ゼロを見たいとも思わない。もしかしたら、もうあの街に降り立つことはないのかもしれない。そんな気がしている。