「好きな演奏/嫌いな演奏」と「よい演奏/悪い演奏」

昨日、演奏会批評に対する、あるナイーブな読者の反応を俎上に載せた。いつもなら枕につかう部分をネタとしてぽんと放り出してみた格好で、読んでいただいている方には少し失礼な気もするが、昨日のタイトル「演奏批評はときに人を不幸にする」は一種の皮肉である。


最後にチラと書いたが、この投書、ほんとうに投稿者の本心の発露か、それともそれなりのリスナーの揶揄の表現なのかが分からない。文字通り読めば、はじめてオーケストラ演奏に触れたこの方が本心で感激し、しかし、専門家からは酷評されているのを読んでがっかりしたという話である。しかし、そんな投書って不自然じゃない?と思う。世に、批評を読んで自分の意見と違うのでがっかりするという話は掃いて捨てるほどある。だが、そのがっかり感をこうした批評批判にまで高めて投書するなんてエネルギーは平均的なリスナーにはない。すごいと思う。だから、僕はこの投書に非常なる感銘を受け、「世の中には純粋な人がいるもんだな」とか「けっこう粘着質の人がいるもんだな」と今になるまで忘れずにいたわけなのだ。


と同時に、「これは皮肉じゃないだろうか」という穿った見方が心の中で芽吹いてくる。僕の想像はこうだ。投書者Aさんはおそらくそのコンサートを実際に聴いたリスナーで、その後読んだ『音楽の友』上における評論家B氏の演奏会批評の凡庸さに呆れた。そこで、Aさんが呆れた部分を針小棒大に取り上げて、「おめえの言っていることはおおきな間違いだよ」という代わりに「よよよよ」と泣き崩れる初心者リスナーを装って反論を投書した。そんな風に感じるのは「いったい批評というのは何のために存在するのでしょうか?」という恐ろしい反語的表現がこの投書の中で使われているからだ。


演奏の"善し悪し"について発言することは、往々にして“好き嫌い"を語ることと同義となってしまうケースが多々あり、そこに問題が発生する。このケースがそれに当たるかどうかはよく分からないのだが、可能性としては批評家と投稿者の“好き嫌い"が割れた結果である可能性もある。そんな想像をしながら、“好き嫌い"をめぐる演奏批評について考えを巡らせてみる。


“好き嫌い"を語ることに意味はあるか。“好き嫌い"を抜きによい演奏批評は可能か。クラシックファンなら誰でも知っている逸話に、ショパン・コンクールで奇才、イーヴォ・ポゴレリッチを落選させた審査員団に猛烈な抗議をして自ら審査員を降りたマルタ・アルゲリッチの話がある。1980年代前半で、その頃、自分はもっとも熱心に音楽を聴いていた大学生だった。この話は、一方で「今の時代にコンクールってどういう意味があるのよ?」というテーマにつながっていくが、これは置いておく。さらにもっと言えば「個性って何よ。それってそんなに重要なの?」というより面白いテーマにも拡張できるが、これも今日は置いておく。うろ覚えの知識だと、アルゲリッチの憤怒は、「好き嫌いはあるとしても、あれだけの才能を評価しないのはおかしい」という点に対して向けられていたと思う。おクラシックは、グルダモーツァルト演奏における装飾法が伝統に適っているかが学者の間で議論されるような世界だから、ポゴレリッチをアウトとした価値観がワルシャワで支配的であったのは、むしろ大いに自然な流れだった。僕自身も、けっこう古い演奏が好きで、個人的な趣味は保守的だと思う。だが、“好き嫌い"と“善し悪し"を混同しているのではないかという批判がアルゲリッチの態度には含まれているように思うし、その点についてアルゲリッチは正しかったのだろうと考える。


“好き嫌い"に関する直感的な印象なくして血の通った批評はあり得ない。ただ、そのときに何よりもまず批評の対象となるべきは演奏家ではなく、批評を行う自分自身であることに自覚的でなければ、自らの“好き嫌い"におもねっただけの印象批評に終わってしまうおそれが出てきてしまう。自己批評精神が欠落したかような批評だけはごめん被りたいと思う。自己批評精神が欠落した文章は、例えばこんな意匠をまとって現れてくる。

この曲のレコードはクナッパーツブッシュとシューリヒトさえあれば他は要らないようなものだ。前者のスケールの巨大さ、素朴さ、深さ、後者の愉しさ、音色の魅力、そして共通するのはブルックナーの本質が絶えず脈々と流れている点である。いずれかといえばアダージョはシューリヒト、フィナーレはクナを採るのが順当だが、簡単に決めつけられないのはもちろんだ。


1987年発行の『新編・名曲名盤500』(音楽之友社)に収められている宇野功芳ブルックナー交響曲第8番のディスク選びに関する寸評から採らせてもらった。宇野さんの評は、こうした「この曲の演奏はこれだ!」風の思い切った言い切りが特徴で、その気っぷのいい啖呵のような文章を支持するファンも少なくないのだとは思う。この文章で挙げられているシューリヒトの演奏は僕の愛聴盤でもあり、おっしゃりたいことはよく分かる。でも、彼の啖呵は、その他の演奏を聴くことの意味がまるでないかのように聞こえないか? そんなことってあるんだろうか? この半年ほどの間に最近のものを含めて宇野さんの著作を2冊ほど読んだが、この方のものの言い方は昔とまるで変わっていない。俺はこれが好きだ。これは悪い。彼の趣味を単刀直入に述べるスタイルだ。クナ、朝比奈、ハイドシェック、ヴァント、チョン・キョンファ……彼のお気に入りは決まっている。


生まれて初めて行った外国にしばしば魅入られるように、生まれて初めて感動を与えられた演奏から逃れるのは非常に難しい。「この曲はこの演奏」という刷り込みの効果は確実に存在する。だが、一つの解釈にこだわることは人生の喜びを自ら拒否する行為であることに次第に気がつくものだ。曲の解釈は一つではない。二つでもない。それら演奏家の数ほどにも存在する解釈の中から汲み取れる喜びが多ければ多いほど人生ハッピーではないか。これは「何でもいい」という態度とは違う。“好き/嫌い"を一歩出る努力が“良い/悪い"を判断する力を養うことにつながるのではないかというのが、僕の今の考えだ。というわけで、“好き嫌い"を支点として、対象を否定的に切り刻む(だけ)の演奏評の価値が問われる。否定から価値のあるメッセージを紡ぎ出す批評は容易ではないからだ。つらつらと思い描くに、昨日の投稿者さんが問題にした評は、もしかしたらそんなタイプではなかったのだろうか。そんな想像が昨日と今日のエントリーになった。


先日、mmpoloさん(id:mmpolo)から毎日新聞に掲載された吉田秀和の短いコラムを教えていただき、はっとした。そうか、吉田さんの音楽評論の愉しさはそんな態度に基があったのかと初めて納得した。この話は年明けに書いたばかりなのだけれど、あれ以来僕はmmpoloさんから頂いたそのテキストを再三読み返している。どうか、再度紹介させてください。

発見は何も新しいものに限らない。私は便所にいろんな本を持ち込む癖がある。近年は論語。そこでこんな文章にぶつかった。「子曰知之者不如好之者。好之者不如楽之者。」すこし書き直してみると、「子は言う。之を知る人は之が好きな人に及ばない。之が好きな人は之を楽しむ人に及ばない」とでもなろうか。音楽評にも通じる話で知識ばかり開陳して結局何が好きかわからない文章。これが好きあれは嫌いと威張っている文章。好き嫌いでなくて楽しみを知る人の書いたもの。
吉田秀和『好きなもの』より)