シャイーのブルックナー交響曲第8番を録音で聴く

シャイーとコンセルトヘボウ管弦楽団のコンビによるブルックナー交響曲第8番のディスクを聴いた。ペンギンのガイドでとても評価が高い演奏なので、一度聴いてみたいと以前から思っていた録音だ。2003/4年版で英国人の評者はこんな風に褒めている。

シャイーはブルックネリアンとしては大したもんだって言われているけど、このブルックナー交響曲第8番のスコアの読みの光り具合は、その評価をますます強固しているね。演奏は洗練されているのに、いい具合にブルックナーの大胆な構成の中にある無骨さも表現している。終楽章は、強烈な切迫感を表現するという方向もあったとは思うけど、むしろそうせずに、この作曲家の決まり事にとらわれないインスピレーションを楽しげに伝えているんだ。シャイーはノバーク版を使っているんだけど、そのおかげでリスナーが望む雄大な演奏をしているのに、一枚のCDに収まっちゃってるのもメリットだ。

てな感じ。同ガイドでは、最高の三つ星評価。三つ星もらったらだいたいこんな風にべた褒めしてもらえるのがこの本のルールだから、そのこと自体は重要じゃない。褒めるに当たってどこに目を付けているのかが、読みどころ、評を読む楽しさだ。この評者が星三つを付けた理由を上の翻訳から探すと、「洗練(refinement)」と「無骨さ(rudness)」の共存ということになるのだと思う。

「洗練」については、このディスクに限らず、シャイーの演奏を言い当てるのに使って常にしっくりくる表現なのではないかと思う。この8番にも、シャイーならではの優美さがあると感じられる。コンセルトヘボウの弦セクションが紡ぎ出す透明感のあるアンサンブルは、この曲をオーソドックスに表現しているようでいて、どこか独自の色合いを聴かせている。シャイーという人は、オケの音色に対して人並みはずれた耳と主張を持っているが、この8番でも目立ちたがってわざとらしく違うことをしているというのではない、自然な個性が楽器のバランスに感じられる。いつもの街を歩いてるのだが、あれ、ちょっと風景が少し違うぞ、なんだかお洒落だぞという感じ。
オーソドックスな中庸のテンポという意味でも、嫌みなところがない。そういうことすべてを指してペンギンの評者が「洗練」と言うのは理解できるところだ。録音はコンセルトヘボウの残響をきれいに収めていて文句がない。聴いて損しない演奏、買って損はないディスクだと思う。

人に対して我を抑えて説明するとだいたいこんな感じになると思う。そこでこれから先は僕の個人的な趣味の話になるのだが、では、これがいつも聴きたいディスクかと言えば、少し違う。ペンギンの評者が「洗練」と呼ぶシャイーの音楽は、フルヴェンやクナのような雄大な解釈とは大きく隔たっているし、ヴァントのようなかっちりした建築物のようなブルックナーとも違う微妙な肌合いを持っている。とくに第4楽章は、ここで見得を切って欲しいというところでそっけなかったりするので違和感がある。その個性、新しさになじめるか、楽しめるかによって、この録音の評価はかなり違ってきそうだ。僕は思わず、シューリヒトで聴き直し、ついでにジュリーニで4楽章を聴いて、やっと満腹感を味わった。自分でも、なんて保守的なやつだろうと、いつもながらではあるが思ってしまう。

ブルックナー:交響曲第8番

ブルックナー:交響曲第8番