オペラ嫌い

オペラが嫌いである。ニューヨークにいる間、秋冬の音楽シーズン中は毎週のようにオーケストラのコンサートに通ったが、メトロポリタン歌劇場には4シーズンでたったの3回しか足を踏み入れなかった。

それまで歌劇場とまったく無縁だったわけではない。1980年のウィーン国立歌劇場では、シーズンの幕開けにグルベローバとカレーラスが出演する『ルチア』を観た。クルト・モルがザラストロを歌う『魔笛』も観たし、レオ・ヌッチがタイトルロールを歌う『リゴレット』も観た。どれも素晴らしかった。その後も、82年のパリでは小澤征爾が振る『トスカ』に接し、90年前後のウィーンでは『ボリス・ゴドノフ』と『さまよえるオランダ人』を観た。ベルリンのドイチェ・オバーでは『アイーダ』を、東の時代のベルリン国立歌劇場では『ローエングリン』に行った。ミュンヘン国立歌劇場では当時サヴァティカルでミュンヘンにいた先輩にチケットを取っていただき『カヴァレリア・ルスティカーナ』と『道化師』を楽しんだ。一番最近の観劇はヘルシンキの歌劇場の『マダム・バタフライ』で2000年のシーズンのこと。だいたい以上で歌劇場出入りのほとんどすべてだから回数はごく限られているが、けっこういろいろなところで鑑賞はしている。

ただ、オペラとオーケストラや室内楽のコンサートとは、僕の中ではどうも別物の扱いである。オペラは音楽以外の要素があまりに強すぎるというのが僕のオペラを躊躇する意識の中心にある感情だ。ハレの日の観劇の楽しさはオーケストラよりも数段優ものがあるが、演出が、舞台装置が、衣装が、とあれこれ蘊蓄をたれ、褒めたりけちをつけたくなる要素があまりに多すぎるのがオペラ。音楽を聴くときぐらい、ゆっくりと音楽に浸かっていたい。そう考えると、舞台の上で起こるあれこれがすべてわずらわしく感じられてしまう。だから、振り付け、舞台装置、衣装のない演奏会形式の舞台がいい。この種の公演は何度か聴いたが、これはオペラとは異なる僕向きのエンターテイメントだ。
もちろん、好きな方は僕が余計だと感じるすべての要素が慈しみの対象となることは間違いないし、それがまっとうな感覚であることにもちろんのこと異存はない。

『mmpoloの日記』で『三文オペラ』を東京で観た感想が掲載されており、それを読んだときにも思わずにやりとしてしまった。

 品川駅広場の公演から数年して池上本門寺の境内でまた黒テントが「三文オペラ」を再演した。楽しみで行ったらがっかりした。黒テントの役者だから歌と演奏が下手なのだ。こちらは数年間CDでたくさんの歌手で聴いていた。どうしても比べてしまう。「三文オペラ」は音楽劇なのだ。
(ブレヒト「三文オペラ」(『mmpoloの日記』2007年10月29日))

mmpoloさんがぼやいているように、音楽に限って言えば、普通の音楽ファンは豪華キャスト、有名指揮者、有名オケのすごい録音であらかじめ曲を聴いてしまっている場合が少なくないので、生演奏に「あれ、こんなもの?」と思ってしまうということがまま起こりえる。mmpoloさんの話題にしている公演は、歌手ではなく役者が一所懸命に歌っているケースなので、そもそも例として引っ張り出すのは酷というものだが、それでも大状況はいずれの場合も似たりよったりだ。すべての登場人物に完璧な配役を望む公演なんて実際にはあり得ないので、役によってはどうしても弱い部分がでてきてしまう。それが大きな欠落感を伴って聞こえたりする。「これは違う」という意識は、「今度はもっとよい公演を観たい」という思いにつながる。こうなると泥沼だ。そしてオペラのチケットはべらぼうに高い。

というわけで、「オペラ嫌い」を標榜することにしている次第である。