他人との距離に人は共通感覚を抱いているか

『mmpoloの日記』で「人の身体の境界はどこか」という話題が取り上げられている。mmpoloさんの胸ポケットのタバコを断り無しに掴み取った知人の行為への嫌悪を枕にT. E. ホールの「かくれた次元」が指摘する同心円的な社会的距離の空間の理論を紹介する一文。これ、すごく面白いと思った。


■人の身体の境界はどこか(『mmpoloの日記』2007年1月27日)


fuzzyさんが『mmpoloの日記』のコメント欄に書いているように、満員電車に乗る我々はこうした空間と身体距離に意味を付与する感覚が壊れていると言えるだろう。それによって、運悪く生命が脅かされる事態も起これば、距離が生み出す社会的な規範やある種の共通の感覚をなし崩し的に壊しているのが東京の日常ではないかと思う。


ネットは無法地帯と言うことがまま言われる。だが最近、まだネット上の方がルールにしたがって行動する個人に出会うことの方が多いのではないかと思うほど、しばしば粗野で、自分の隣にいる他人が自らの同心円から消えているような人に街中で出会うことが多い。平野啓一郎さんが『ウェブ人間論』の中でネットにおける匿名の情報発信が社会的な無秩序に堕する危険性にこだわっていたのを思い出しながら、こういう人は、顔は誰からも見えているのにもかかわらず、彼自身は匿名の個人なのだと思った。


日本全国どこでもそうだとは言わないが、僕の生活圏では明らかにどこかで重要な規範が壊れかけている。しかし、それが普段はよく見えない。ネットの暴力的な側面は、リアルの本当の姿がそこではよく見えるというだけのことではないのかと、身も蓋もない平凡な理屈に思い至る。