「球体写真二元論: 細江英公の世界」

僕はアートとしての写真の知識はほとんど持ち合わせていない写真のド素人である。だから、細江英公という人が国際的にはもっとも名の知られた日本の写真家なのだと聞いて、へえ、そうなんだと思った。三島由紀夫をモデルにした写真集『薔薇刑』は三島の話を読むと出てくる名前だし、どこかでちらと画を見たことがあったが、その『薔薇刑』を撮ったのが若き日の細江英公さんなのだ。そんなことも知らない僕が東京都写真美術館で開催していた「「球体写真二元論: 細江英公の世界」展」を見てきた。実際に足を運んだのは12月末のこと。展覧会は昨日で終わってしまった。もう少し早く書いた方がよかったかも知れない。

■「「球体写真二元論: 細江英公の世界」展」


作者に対しても、その作品に対してもその程度の知識しかないし、まったく先入観がない。期待もなければ、いじわるく観てやろうという気持ちもない。だいたい写真を観るときはいつもそうだ。だから、「そうか、こういう作品が受けるのか」と率直に思う。展覧会は作者の代表作を発表年代順に展示したもの。『おとこと女』、『薔薇刑』、『鎌鼬』など細江さんの代表作が一堂に会する。とは言え膨大な作品が目白押しという感じではなかった。ほんとうに代表作と言える作品を厳選して並べた展覧会である。


細江さんの作品は実に芝居気がたっぷり。写真を撮る行為、それをアートとして提示する行為は、作者のカメラを忠実に操作する技師としての側面、思った通りの画を再現する職人としての側面、と被写体を選びとるアーティストとしての側面の複合体として成立しているとぼくは素朴に考えている。しかし、細江さんの作品を観てたちまち分かることは、アーティストとしての写真家は演出家なのだという事実だ。演出家としてのカメラマンにとって画をつくるための創造の可能性は非常に大きいことを彼の作品は証明してみせる。『おとこと女』、『薔薇刑』、『鎌鼬』。それら作品集のどれを観ても、写真家=演出家としての細江英公が大立ち回りを演じる様を、カメラのこちら側で僕ら鑑賞者がじっと眺めているかのような幻想を抱かせられる。


富士写真フイルムのこのページに行くと、細江さんの作品が観られるしインタビューが読める。
■富士写真フイルムの「細江英公」のページへ


この展覧会のタイトルにもなっている「球体写真二元論」は、写真という表現手段は主観(自己表現)と客観(記録性)という二つの極の間で表現を選びうる大きな自由を持っているという作者の思想を表したものだそうな。写真を観てからその言葉を聞くとなるほどである。細江さんの表現は「二元」の「主観」の側に大きく寄ったところで創造の可能性を探すものだ。


そして演出家である細江さんにとっては演じる者の役割が重要になる。少なくとも、そういうものとして細江さんの代表作はできあがっており、作家の三島由紀夫、舞踏家の土方巽といったアクの強いキャラクターが彼ら自身を画面の中に解放しているさま(あるいはそれは幻想であり、写真家のしかけた狡猾なトリックかもしれない)が細江作品の強さと直結している。


昭和30年代半ばに発表された『おとこと女』の表現の現代性には目が覚める。撮られて50年近く経ったいまもそこに表現されているフォルムがまったく古びて見えないのは、ちょっと普通じゃないぞと思う。『薔薇刑』を経て『鎌鼬』に向かう細江作品の、時代を超越した普遍的な強さにはまいった。もっとも、それらの作品がまったく時代の空気から孤立していたわけではない。細江さんの作品は「男と女」「西洋と東洋」「都市と地方」「過去と現在」といった意味ないし思想の領域へのこだわりをモチーフにしているのが大きな特徴であると僕には思えるが、そこでは明らかに二項対立的世界観が作品を覆っている。まさに当時の社会・思想の世界は「二元論」で成り立っていた。モダンな、あまりにモダンな世界。しかし、彼のフォルムの新鮮さ・強さが思想を食っている。そこに細江作品の時代を超越した普遍性が存在していると言えるのではないか。


今日のエントリーに凡庸な風景写真を付けるのは相当マゾヒティックな営みだと自分でも思う。先週末の、冬の朝の一場面。凡庸な素人カメラマンはもちろん演出をする術を知らない。