「谷口ナツコ展」に行く

『mmpoloの日記』で絶賛されていた谷口ナツコさんの絵を帰宅途中に見てきた。

年間延べ2000軒の画廊を回るというmmpoloさんが「天才画家」と称える人。へらへらした文章を書かないmmpoloさんが「真に独創的で才能のある画家が現れた!」と「!」付きで賞賛する作家。そんな人がどんな絵を書くのか純粋に興味が湧いたのだ。

■天才画家:谷口ナツコ展(1)(『mmpoloの日記』2006年12月12日』)
■天才画家:谷口ナツコ展(2)(『mmpoloの日記』2006年12月13日』)

mmpoloさんが指摘する色彩感覚にめくるめく思いを味わう。ちょっと他に類例を探すのが難しいんじゃないかと言いたいほどに大胆で、であるにもかかわらず徹頭徹尾、繊細で破綻がない色と形の無休動。『mmpoloの日記』の写真でも、その独自さは手に取るように分かる。しかし、本物を見ると心の中で静かな感嘆の声を上げたくなる。さすがにそこまでは写真ではよく捉えられていないが、途轍もなく微細な表現がどの作品も画面全体を覆い尽くしているのだ。面を大まかに塗り分けた後に、mmpoloさんのご報告にあるとおり点描風の表現で微細なフォルムが描き分けられている。点描と書いたが、単なるドットの連なりではない。あるところは○だが、あるところは微細な線。それもおそろしく装飾的で、信じられないほど労力を要する丁寧な仕事だ。この凄さは本物を見てくださいと申し上げるしかない。いったい一作仕上げるのにどれだけのイマジネーションと計算と時間を要するのか。途方もない作業である。

とりわけ最も大きな作品(作品名はたしか『少女の森』だったか)には有無を言わせないものがある。色彩もそうだが、その細部の点と線の千差万別の組み合わせの妙。それは、ちょっと常人の感覚を突き抜けたところにある何かがなせる技だ。mmpoloさんは「聖性」とおっしゃっているのがそのことを指しているのかどうか分からないが、谷口作品に表現されている円を基調にした無限運動は、どこか曼荼羅を思い起こさせる。他の方とお話しをしていた作者にお声はかけそびれたが、こういう作品を書く人には文学的な意味でも関心が向いてしまう。そうしたものをお持ちの方、そういうものを感じる作品。

だが、どの絵にも現れる顔の表現については、僕はどうも好きになれない。作者の中でどういう位置を占めているのかよく分からないが、僕の嗜好では、あの漫画のようなおかしな顔は絵をぶち壊していると思えてしまう。オリジナリティの塊のような作品にあって、どこかで見たことがあるような表現に違和感を覚える。はっきりとイメージできるこれという作品が思い出せそうで思い出せないのだが、近いのは歌川国芳のお化けか、あるいは山下清澄の人物か。あの顔ないし人物が表現の中心、あの顔あっての作品というのであれば、僕自身は一定の限度を超えて近づけないかもしれないとは思う。

だからといって、もちろん一鑑賞者の僕が谷口さんにこんな作品を作ってください・作らないでくださいとお願いしたいわけではない。さすがに僕だってそんな恐れ多いことができるほど馬鹿ではない。孤独で、傲慢な想像の瞬間を、自らの手で絞り出すアーティストの姿には出会うたびに大いなる感銘を受ける。その創造の瞬間をハンドリングする能力と決断力に尊敬の念を抱く僕と、好きだ・嫌いだを云々する僕がいる。

それにしても、ここまで書きながら、突き放して自分を眺めつつ思うのだが、毎週の画廊巡りの末にmmpoloさんが出会いご報告された画家について、もちろん見に行くのは己の自由だとしても、あらためてこうして文章にするのはなんだかいやらしい行為じゃないかという気がしないでもない。考え過ぎかもしれないが、よく分からない。