疾走するかなしみ

昨日のエントリーに対して三上さんからコメントを頂いた際に「中山さん、小林秀雄の「モーツァルト」の「疾走する悲しみ」覚えてますか?」と言われてびっくりしました。理由は二つあります。

一つは今日、今年初めてのプロの音楽家のコンサートに行ったのですが、その演目がオール・モーツァルト・プロだったこと。モーツァルトだけの演奏会など訪れるのは20年ぶりぐらいになります。まだズデニェック・コシュラーが生きていて都響をしばしば振っていた頃にやった「三大交響曲」、東京文化会館ということまで覚えているぐらい。それぐらいモーツァルトを目指してコンサートに行かない僕が、「明日は久しぶりにモーツァルトだ」と思っていたら、三上さんからのコメントです。うわあと思いました。

もう一つについては、いままで黙っていたのですが、1,2週間前に『三上のブログ』に無惨な白樺の切り株の姿が掲載されたまさにその日に、何の因果か我が町内で有名だった二本の巨木が大きなベッドのような切り株になっていたことに続く偶然の一致だったこと。きっと注意力を研ぎ澄ませていれば「偶然の一致」は思いの外たくさん転がっているらしいということに思い至りました。

それにしても三上さんのコメントは寝ている子を起こしてくれました(笑)。三上さんにはとてもとても申し訳ないのですが、くだんの小林語録に対して僕はものすごく斜に構えて眺めているからです。

『mmpoloの日記』(id:mmpolo)のmmpoloさんは、小林秀雄で転んだお知り合いがいると書いていましたが、「疾走するかなしみ」は小林の悪いところと世間の小林に弱いところががっちゃんこした例のように感じています。キャッチとしてすごく格好いいのは否定しません。日本戦後キャッチフレーズ大賞で金賞をあげてもいいぐらい。でも、「モーツァルト=かなしみ」はご本人がちゃんと書いているようにスタンダールモーツァルト論に出てくる表現で、小林は「スタンダールは悲しみと言うが、彼のト短調アレグロは疾走して感傷に陥らず、悲しみというよりも孤独に近い」と言いたい(実際、そう書いている)がために「かなしみは疾走する。涙は追いつかない」と書いたわけで、レトリックの格好良さに比べて言っていることはぜんぜんたいしたことない。

吉田秀和さんの書いたものを読むと、モーツァルトにメランコリックな色合いがあるのは彼の時代から注目されていたことだそうで、「かなしみ=モーツァルト」は19世紀のスタンダールの発見ですらないわけです。小林の『モォツアルト』はこのスタンダールゲーテなどスター文化人数人のモーツァルト論と小林の直感をくっつけただけの代物で、ものすごく底が浅いとしか言いようがない。と、僕らが思うのは、そのあとに書かれた数多くのモーツァルト論、とくに吉田秀和さんの執念のような数々の論文やエッセイによって教育されているからではあるのですが、それはそれとして、そうした目で眺めたときに小林ってけっこう言い回しだけの人だということに思いが至る。吉田さんは小林さんの『モォツアルト』については数多くを語っておらず、彼の論文の中で「小林秀雄さんのすばらしい『モォツアルト』」といった感じの言い方しかしていません。が、人格者の吉田さんは小林さんの批判はそれとはしないものの、あの膨大なモーツァルト関係の著作は、結果的には間違いなく小林さんの『モオツァルト』へのアンチテーゼだと僕は思います。音楽関係者の評価がどうなのか、僕は知りませんけど。

端的に言って小林秀雄の『モオツァルト』が浅いと僕が思うのは次の象徴的な二つの記述によっていると言ってしまって差し支えないかも知れません。一つ目は、かの有名な、道頓堀を歩いていた小林さんの頭の中で突然ト短調シンフォニーが鳴り出して、脳に手術を受けたかのようにおののいたという話。そこで、道頓堀ではジャズが安っぽく鳴っていたみたいな表現があったはずです。そこでアウトです。「モーツァルト>ジャズ」というのはあまりに音楽無知で、昔の人の感覚。二つ目。モーツァルトを聴くとハイドンは足りない音楽に思えるという記述。小林が『モーツァルト』の中で、ロマン派の音楽に比べてモーツァルトが素晴らしいと言っているのと同じレトリックを、僕のようなハイドン・ファンはモーツァルトハイドンの関係に援用したい。ハイドンの方が単純であるが故に純粋で素晴らしいと言える部分もあるということを小林は聴けなかったのはとても浅い。この人の音楽的センスはたいしたことない。

僕が小林の「疾走するかなしみ」を面白くないと思うのは、「小林先生がおっしゃるから、モーツァルトはそういう風に聴かなければならないのだ」といったお馬鹿な追従者が音楽を自分ならではのイマジネーションを広げながら聴く自由を奪うような雰囲気を作ったことで、これは小林が悪いのではなく、「疾走するかなしみ」を単純に字面だけのコピーとして取り出した日本のメディアだか、文化人様だかの責任でしょう。

今日のエントリーはクラシックおたくかアンチ小林秀雄の方しか面白くないかも知れません。ごめんなさい。

なお、これはよく誤解されるのですが、「かなしみは疾走する」と小林が言うのは弦楽五重奏曲第4番ト短調 K.516の第1楽章。交響曲第40番ト短調の第4楽章は道頓堀のエピソードで語られています。