本気で書かれた文章に出会う

図書館で久しぶりに沢木耕太郎を借りて読んだ。彼の全集からボクシング以外のスポーツを素材とした作品を集めた『酒杯を乾して』。ブログを書く間もないほど忙しいですと書いておきながら、ちゃんと毎週お楽しみの読書を続けているのはインチキ野郎のように思われそうだが、読書に使うのは片道1時間20分の通勤時間が中心です。出来ればもう少し時間があればとは思うが、仕事はしなくちゃ怒られるし、個人的な頼まれ仕事はあるし、文句は言えない。


日本のノンフィクションの中で一種のプロトタイプと化している沢木さんの文章には、読んでも絶対に裏切られない安心感があるし、勉強にもなる。そうか、ここでこういう風に自分を表現すると、次のこういう場面が際立つのか、などとノンフィクション教室のある種のお手本を読んでいるよう。


その厚い全集本でもっともページ数が割かれているのは5年前のワールドカップ日韓大会の観戦記である『杯』である。その作品の前に置かれていた陸上競技の世界大会やロサンジェルス五輪、スキーの滑降競技の観戦記など数編に接し、「さすが沢木耕太郎だなあ」とひとしきり感心したのだが、その印象は『杯』を読んでいるうちに最後にはなんだか萎んでしまった。『杯』はワールドカップ日韓大会の試合を駆けめぐる自らの様子を日記風に記した作品で、例のごとく自分自身を斜め上からの視点で記述しつつ、彼が見る対象と自分との距離の伸び縮みを表現していく典型的な沢木作品ではある。


ただ、如何せん、ご自身が著作の中で述べている通り、サッカーについて専門的な知識がない沢木さんの記述には本当に芯となるべき対象が存在していないような頼りなさがある。大会期間中、ソウルの街中にアパートを借りて、そこを拠点としながら日本と韓国にちらばるあちこちの試合会場へと飛行機、バス、タクシーを乗り継ぎながらやたらと忙しく出かけていく様はそれなりに面白い。韓国と日本がこの大会をそれぞれどう体験したかについては、路上の観察が冴える。とくに韓国で彼が出会う韓国の市中の人たちの姿、そして旅の繰り返しにへとへとになりながら右往左往する自分自身を言葉に刻む沢木さんの技は相変わらずだ。


と同時に、試合はむしろ書き割りとして存在している印象が強く、それが最終的に読み終えた際の物足りなさの感情を掻き立てる。ボクシングを語る沢木さんの、視線が対象に絡みつく、あの濃厚な瞬間は決して訪れない。あたかも広大なスタンドで観戦する沢木さんとフィールド上のサッカー選手との物理的な距離を指し示すかのように、試合や選手に対する彼の記述はもう一歩というところで肉薄することを止めてしまう。それに、ワールドカップと彼自身との距離は如何ともしがたい。結局彼は単なるお気楽ツーリストとは言わないが、大挙して大会に押し寄せたジャーナリストの一人ではないか。手練れではある。しかし、と思う。


ノンフィクションと言えば、若い頃の僕にとっては開高健がほとんどすべてだった。戦争も、釣りも、グルメも。釣りをモチーフに数多くの著作は、その後の釣り雑誌のエッセイの文体がすべて開高調に変わってしまったというほど世の中に影響を及ぼしたが、ただ、時が経るにしたがってひりひりとした緊張感は薄まってしまった。だから僕は釣りもので言えば『フィッシュ・オン』、これが開高さんの最高の作品だと考えてしまう。もちろん、内容の多彩さ、深さとしては『オーパ』、『もっと遠く』『もっと広く』などの物量主義的スポンサーお抱え旅行シリーズがより楽しめるとしても。沢木さんの作品を久しぶりに読んで、開高作品の展開と同じような進み行きを感じる。安定したスタイル。作品の中に登場する沢木さんとそれを文字に産み落とす沢木さんの間の隙間の大きさ。


『酒杯を乾して』を図書館に返した際に、その二段下の棚にあった永沢光雄さんの『声をなくして』が目にとまり、借りてきた。つい先日あちら側に旅立たれたライターの方だが、『mmpoloの日記』で読むまで僕は存じ上げなかった。その印象的なエントリーが記憶にあり、棚の上の本に手が伸びた。壮絶な闘病の、飄々とした記録だった。日記であるが、あくまで他人に読ませるものとして書いた文章であり、物書きとしてのプライドと人間としての強さが全編を貫いている。命を削って書かれた文章。自分と同い年だが、人間の器が違う。開高も永沢さんと同じ食道癌で命を落としたのを思い出す。ただし、永沢さんとは違い、開高さんはご自身の病気について死ぬ間際に知り、それによって生きる力を失って生を終えた。


■永沢光雄逝去(『mmpoloの日記』2006年11月5日)


『声をなくして』の中にこんな文章を見つけた。

三十五歳を過ぎたあたりから、私はその文筆家を志す若者たちに蔓延しているノンフィクションなる書き方を、沢木耕太郎病と呼ぶようになった。
まずは自分のことを書き、そして対象物との出会い、それらのもみあい、葛藤、やがての相互の理解、そして「じゃ」と片手を挙げて世間の雑踏の中に対象物は消えていく。
(中略)
こんな文章を書いてメシを食ってゆきたいものだ、と平日の昼過ぎ、大学に行く気は毛頭なく、ただひたすらそう思ったものである。
こんなものなら、私にも書けなくはないのではないか? おそらく、かなりの数の日本の若者はそう思ったのではないだろうか?


永沢さんは開高さんや沢木さんが獲得した物書きとしての安定した地位を得ることなく、真実の瞬間を日記文学に残して逝ってしまった。文学のために? そうだと信じることはご本人の供養になるのではないか。そう思いたい。

声をなくして

声をなくして