平野さん、腰砕けですよ(『ウェブ人間論』をめぐる覚え書き1)

今年の夏、勤め先での講演を梅田望夫さんにお願いした際、講演当日の夜にその印象をブログに書いた。彼の行動パターンをある程度理解した今となっては驚くことでもなんでもないのだが、梅田さんは数時間のうちにそれを見つけご自身のブログで紹介してくれた。その素早い身のこなしにびっくりした。仕事に関係した連絡のついでにそのことに対する御礼を述べ、情報収集の凄さに舌を巻いたと率直な感想を一言付け加えたのだが、それに対して梅田さんからは次のひと言が返ってきたのだった。

「ネットに住んでいるからですよ!」

実はこの「ネットに住む」という言葉は講演会の中でも発せられていたのだが、あらためてメールに乗って返ってきたことによって、しっかりと記憶にとどまることとなった。いかにもありそうで、よく考えてみるとあまり聞いたことがない比喩である。普段はネットに住んでいる梅田さんが、住み処から出かけてリアルの空間で人に会う。講演を行う。そういうイメージが思い浮かんだ。一歩間違えれば、飛び交うデジタル信号が梅田さんの顔かたちに組み上げられて歩き出す、ハリウッド風のSFチックな映像が目に浮かんで一人歩きしてしまいそうな気もするが、この場所でそうした非現実的なイメージを肯定してしまうのは適切ではないだろう。個人の実存にとって感覚器官の拡張は常に可能性として存在していることを技術の時代に生きている我々は皆知っている。ただ、そこで梅田さんがその表現の中に何を含め、あるいは何を意味していないのか、実はその境界領域がどこにあるのかがはっきりとは分からずに戸惑いを覚えさせられたのも事実である。要は、ネットのオールマイティ性を梅田さんはどこまで楽天的に信じているのだろう、どこまでが確信犯的なポーズなのだろう、というのが僕の疑問だったのだと思う。

それに対する一つの答えを与えてくれたという点で『ウェブ人間論』は僕にとって興味深い読み物だった。長い対談の冒頭で梅田さんがこのように語りはじめる。

今の僕は、朝四時に起きてトータルで一日八〜十時間位ネットにつながっていて、「ネットの世界に住んでいる」という感覚なんです。
(『ウェブ人間論』p15)

この一文の後、向こう数ページにわたって「ネットに住んでいる」具体例が説明される。時空をまたにかけて効率的な情報収集や情報交換を行い、リアルでは知り得ない人々との交歓から新しい知識を獲得するといった先進、先端的なネット利用を実践する梅田さんのネットの日常に関する記述は、「はてな」ユーザーをはじめとするブロガー諸氏にはすんなりと受け入れられるものだろう。

梅田さんが「ネットに住んでいる」という時、そこにはネットとリアルの場をまたがるアイデンティティの合一が言わずもがなに含意されているわけだが、平野啓一郎さんはこの梅田さんの前提に対して果敢な論戦を挑む。『ウェブ人間論』で繰り広げられている様々な議論の中でも、この「匿名と実名」をめぐる談論はもっとも刺激的な部分だと僕には感じられる。

平野さんはインターネットの上で有用性が低く、社会的に有害な情報が大量の存在する現実を率先して議論の俎上に乗せ、ネット特有の匿名性の空間、さらには「顔」が保証する個人としての同一性をリアルの世界との間で切断できる環境が準備されていることが、ネット上に社会性のない発言をばらまき、あるいは他人への中傷や攻撃を可能にする契機として機能していると深い憂慮の念を表明する。彼には自分自身が中傷の標的になった強烈な体験があるため、ネットのダークな側面は看過できない問題なのだ。これに対して梅田さんは、匿名性が引き起こす問題はネットの現実として存在することを認めた上で、匿名であっても今日のブログのようにネット上での人格の同一性を保証するシステムの存在が実現する便益の側面に光を当てようとする。

少し余談に傾くが、この部分、『ウェブ人間論』よりも、むしろ『新潮』に掲載された記事『ウェブ進化と人間の変容』で読む方が物語としての面白さは格段にあると僕は思う。『ウェブ人間論』は情報量の面では圧倒的に多く、二人が言わんとしていることはより正確に補筆がなされ、発言の順番も整えられて理解しやすくなっている。さすがに“論”としての完成度は高いが、その反面、対談の醸し出す鮮烈な空気はかなり希薄になってしまった。読む者の神経をもぞわっとなでるような話し言葉の野趣、必ずしも十分に説明されいないがゆえに、次に相手が何を言うかなと読む者が身構えてしまうような(とりわけ平野さんの)闊達に相手に切り込む発言は、そこに至る長弁舌によってきれいに整理され、やけに優等生どうしのやりとりに形を変えてしまった。新書に仕立て上げる過程で実に巧妙な手当てが施されており、その技術とサービス精神には感服するが、対談を読む醍醐味が後退した点だけはちょっと惜しいと思う。

具体的に引用させてもらう。

梅田:そういう時に僕は違う印象をもつんですよ。平野さんが「齟齬」と思うかわりに、「ああ、この人ってこんなすごいところがあったんだ」「こんな違う面もあったんだ」と思うわけです。つまり日常で会ってみてわからないことが現れている。両方合わせて一人のアイデンティティで、「ああ、人間って面白いな」って、僕などは思ってしまう。

平野:いや、まあ「齟齬」というのはいい言葉じゃないですけど、そこのところは、ちょっとデリケートに見る必要があると思うんです。そういう「別の一面の発見」ということとは別に、現実の世界の中で自己実現できていないとか、自分の言いたいことを自由に言えないとか、そういう不満を解消する目的のためにネットに別の人格を作り上げている人たちもいる。彼らには、リアルワールドとネットの世界という二分法があって、その境界線が主体の内側に内在化していて、前方に一つのリアルな世界が開かれ、後ろ側にもう一つの別の世界が開けている。その結節点に、主体が形成されているんじゃないかという印象なんです。

梅田:うーん。
(『ウェブ進化と人間の変容』新潮2006年6月号p159)

梅田さんの「うーん」に至る流れがドラマとしてとても素敵だったのに、この辺り、『ウェブ人間論』からはこういう二人の論者が生身の人間としてぶつかり合う生々しい展開が消えてしまった。理由はおおむね平野さんの加筆にあって、ご本人にとって舌足らずだと感じられる発言は綺麗に精緻な論理展開に塗り替えられてしまったのだ。ただし、議論それ自体は「ブログをやっている人の意識」の5類型、有益なコミュニケーションのためのブログと独り言ブログなどの概念を準備することによってまるで分かりやすく流れるようになったので文句を付ける筋合いではないのだけれど。それにしても、上手に二人で発言をつないでいるものだと感心してしまう。それを見て思う。平野さんはやはり小説家、書き言葉の人だ。興味がある人は、やはりそれぞれに持ち味がある両方の文献にあたるべきだろう。

ウェブ人間論』でこの議論が展開される第二章は、梅田さんの「だから全部を見て傷ついたりするよりは、自分にとって悪いもの、不必要なものは見ない。そうやってネットリテラシーを育てていくしかないのだと思います」という発言をもって終わる。この一文が締めくくりとして違和感なく機能しているのは、平野さんが最後にはなんだか妙に梅田さんの主張に寄り添うような発言と雰囲気を醸し出しているからだと僕には感じられる。対談としては予定調和めいてしまって、今度はこちらが梅田さんの代わりに「うーん」と唸りたい気分だが、それでも平野さんは、章の終盤で梅田さんから次のような発言を引き出したことで素晴らしい役割を果たしてくれたと思う。

梅田:おっしゃる通りだと思いますが、僕は最近、逆説的だけど「たかがネット」と考えることも大切かなと思うんです。「たかがネット」って言い方は自ら限定するみたいだけど、やっぱりネットが活きる領域は情報までだと思うんですね。情報がすべてだ、という考え方もあるけれど、やっぱりネットの空間では、情報以外はいじれない。逆に言うと、リアルにはリアルのすべてがある。お金の回り方で言うのが一番わかりやすいかもしれないけれど、リアルの世界というのは摩擦がいっぱいあって、何かやるためにはお金がかかる。だからリアルではネットよりもお金がまわっていきやすい。(中略)だからたぶん、相変わらず向こう何十年も、経済面ではリアルの世界の方が大事だということが続くと思いますよ。人間はそういうこれまでのリアルを生きながら、全く新しいネットをも生きる。そんなイメージを抱いています。
(『ウェブ人間論』p94)

この発言によって梅田さんが言う「ネットに住む」ことの技術屋さんの理想論ではない、現実的、よい意味での功利的な意味合いが明らかになってきたように思う。この一文を目にした感慨が消え去らないうちに、もう一度『ウェブ進化論』を読み直してみたいとも考えている。