羊をめぐる冒険

昨日頂いた美崎薫さんのコメントの中に「村上春樹の著作の中で『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』が最も好きというひと言があった。美崎さんが作っているSmartCalendarと『世界の終わり』に出てくる獣の頭骨のアナロジーのせいばかりではないはずだ。その気持ちはよく分かる。僕の親しい友人も、やはり『世界の終わりハードボイルド・ワンダーランド』がもっともよいと言う。


初期の村上読者として、忘れられないのは『羊をめぐる冒険』だ。『風の歌を聴け』から読んでいる読者として、個人的にはこれが村上作品のナンバーワンだが、より客観的に眺めると『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』がもっとも優れた村上さんの小説という意見は妥当だろうと思う。賛成してもいい。『羊』『ワンダーランド』、それに『中国行きのスローボート』や『蛍』などの初期短編は僕にとっての村上春樹だ。


「百パーセントの恋愛小説」とかいう宣伝文句でミリオンセラーを記録した『ノルウェイの森』以降、村上さんの作品はかつての喜びを与えてくれなくなってしまった。『ノルウェイ』は「えっなんでこうなるの」と言いたくなる色合いの作品で、読みはしたものの、これをどうやって受け付けてよいのやら皆目分からず困ってしまった。日本文学のねっとりとした人間関係を模倣する実験でもしてみたのかしらと戸惑いながら想像してみたりしたが、そうこうするうちに村上さんの目線はそれ以前とは少し違うところに行ってしまったように感じられる。『ねじまき鳥クロニクル』も『海辺のカフカ』も『アフターダーク』も、小説としてはより複雑さを増し、表現と世界観は洗練さを重ねているのは間違いないのだろうけれど、昔の村上作品に漂っていた“しんとした雰囲気”は薄まってしまった。


『世界の終わりハードボイルド・ワンダーランド』の頃までのオリジナリティは今の村上作品にはない。新刊が出ればとびつくようにして読んだ『ダンス・ダンス・ダンス』の頃までの自分が懐かしい。読者である自分と村上さんとどちらが変わったのか。こればかりはよく分からない。


その代わりと言ってよいのかどうか分からないが、『ダンス・ダンス・ダンス』以降の村上さんからは数多くの翻訳を楽しませてもらうことになった。とくにレイモンド・カーヴァーは僕にとって『ダンス・ダンス・ダンス』以降の村上作品そのものだ。