わいわい2周年の春樹談義

金城さんが主宰するわいわいがめでたく2周年を迎えたので、お祝いに出かける。開始時間を過ぎていたのに、珍しく主宰者がまだ会場には到着しておらず、せるげいさん(id:sergejO)と某国大使館員のSさんとの雑談にまっすぐ突入。ビールを注文する間もあらばこそ、せるげいが「村上春樹のどこがいいんですか?」「ほんとうにいいと思ってブログ書いてるんですか、うそでしょ?」「あれは、ブログ向けに適当なこと書いているんでしょう?」「村上春樹がいいという人にどこがいいかと訊いても答えが返ってこないんですよね」と、立て板に水の勢いで挑発してくる。

この人のテンポが常にそうなのを知っている人にとっては驚くことではないが、最近、脳の反応が鈍くなっているのではないかと自分のことを疑っている身としては、音が頭の中で意味をなす前に次の話題にとんでいるこのスピード感には、まったくついていけず「村上春樹、なぜいまここで村上春樹なんだ」と呟くのが精一杯。

村上春樹が出始めの頃から、ひつじ三部作を書いていた頃に彼の小説を支持していた者、というか、彼の小説を支持しますと公言していた者は、(僕の年代では)明らかに少数派だったという返事はしておいた。その感覚は強く残っているので、せるげいさんが言わんとしていることは分かる。時代はそのようにして変わったのだ。現在のわたくしは、せるげいさんには言ったけど四重人格ぐらいではあるだろうから、そのうちのひとつの人格は村上春樹ファンなんだよ。別の人格は「村上春樹?」とか言ってるけど。

でも、その後にせるげいさん自身が別の話題のなかで主張していたように、日本の文学は、国民の教養の確固たる源となる型を維持することなくどんどん変容してきたのだとしたら、村上春樹がきて、その次になんだかよくわからない誰かが来たって不思議ではない。

僕にとってほんとうに不思議なのは、(これもせるげいさんがさかんにいぶかっていたことだが、)なぜヴォネガットや何かの亜流だとけなされたハルキさんが米国で受けるのかという点で、これについては、ほんとうにどれだけの、どのようなアメリカ人読者に村上が受け入れられているのかという事実を含めてよく分からない。アジアやロシアで受けるというのは、なんとなく理解できる気がする。それはおそらく「都市生活者の孤独」だとか、「強大な力の前で自身を守る個人」といった文脈がその地で存在するのだろうと想像できるということだ。しかし、アメリカで村上春樹が人気があるなどということが起こるのだろうか。フランスで武満徹がもてはやされるなんてことが起こるはずがないのと同じように、それはとても難しいことのように感じてしまうのは、僕が世界の現在をまるで理解していないということなのかもしれない。赤はだれにとっても赤だが、そのクオリアは一様ではないし、アメリカ人が日本人と同じような想像力と食欲を携えて鮨に向かっているかどうかは分からない。文化の伝播だとか受容というのは、そもそもそういうことなんだろうが、では村上はアメリカ人の平均的な小説読者にとって何?