映画『カポーティ』を観る

8月9日に「『トルーマン・カポーティ』を読むか、トルーマン・カポーティを読むか 」と題するエントリーを書いた際には、『カポーティ』という映画が封切られることすら知らなかった。それほど、僕は映画にはうとく思い入れのない人間である。映画は見れば楽しいし、映画館のシートに沈み予告編が始まると、あぁこれもみたい、あれもみたいと心は率直になびくが、実際にはそれらの作品を追いかけることはほとんどなく終わってしまう。一年映画を観なくても別に禁断症状を起こすこともない。だから、『横浜逍遙亭』へのアクセスログを見て、なぜこれほどにこのエントリーを読みに来る人がいるのか、この映画の存在を知るまで合点がいかなかった。


知ったとたんに、やはりこれは見逃せない映画だと思った。なんといっても名作『冷血』を下敷きにした話だというじゃないか。映画の公式ホームページを見ると綺麗な映像が期待できそう。いいぞ、と思った。よし、行こうと即決した。


カポーティ』の上映館は限られており、横浜市内では一軒もなし。最も近い川崎チネチッタは夜の興業だけ。結局、一週間前に『HASHI[橋村奉臣]展』で訪れたガーデン・プレイスまで足を運ぶことになる。三上さん(id:elmikamino)、美崎薫さん、rairakkuさん(id:rairakku6)と一緒に並んで写真を撮った写真美術館の壁からはHASHI展ののぼりが消えていた。その脇を抜けて、恵比寿ガーデンシネマへ向かった。


観て思った。この映画は名作『冷血』によりかかったかたちでのみ存在している。結論から言えば、『冷血』を読まずにこの映画だけを見て心底感銘を受けた人がいたらぜひお目にかかりたい。そう言いたくなる腰砕けの作品だ。


映画は1959年の冬に起こったカンザス州の豪農一家4人の殺人事件を取材し『冷血』を執筆するカポーティの数年間を追う。スクリーンに映されるカンザスの風景は素晴らしい。かつて、3度ほど電話会社にインタビューするために僕はカンザスを訪問したことがある。ちなみにカンザスシティは、カンザス州との境目ながらミズーリ州に属している。どうでもいいが、けったいな話だ。それはともかく、そこから訪問先のオフィスまで、広い大地を走るハイウェイをタクシーを駆って疾走したはずだ。朦朧としていた記憶の断片が蘇った。最初に訪れたのは、生まれて初めてアメリカに足を踏み入れた出張の際で、夜中にマリオット・ホテルに到着し、明くる朝を迎えたら、ホテルの外は一面の銀世界。晴れ上がった空の下に雪でまぶしい荒野と何車線ものハイウェイが延びていた。あのアメリカのど真ん中に広がっていた広大な大地を思い出す装置として、この映画は素晴らしかった。優れた映画の映像は、極めて個人的な感慨に思いがけなく触れるものだ。この映画が平均的なアメリカ人にとって、そうした記憶の引き金となっている可能性は大いにある。そうでなければ、何故カポーティなどが題材の映画が大手映画会社から配給されるだろう。


しかし、カポーティと時代を共有したわけでもなく、カンザスの大地に縁もない日本の観客にこの映画が訴えるものがあったかと考えると極めて疑わしいし、アメリカ人にしたところで、これを名作と呼ぶ根拠は極めて乏しいのではないかと思われる。映画は、カポーティがふくらませた創造力を、まったく反対にしぼませて身も蓋もない彼の「個人的な体験」に矮小化することによって成立している。


カポーティは名作の誉れ高いノンフィクション『冷血』の執筆に際し、その主人公である殺人犯・ディック・ペリーに自らの前半生を重ね合わせ、大いなる共感をもって『冷血』を書きあげる。カポーティは短躯で不幸な少年時代を過ごした殺人犯ペリー・スミスにもう一人の自分を発見し本心からの同情を感じる。しかし、同時に流行作家としてのカポーティは、作家としてのすべてを賭けた同時進行のノンフィクション『冷血』の完成と出版のためにペリーの死刑執行が一日も早く執行されることを望む。映画はそうしたカポーティアンビバレントな二つの感情をテーマとし、『冷血』の後にたった一つの作品も完成できずにアル中としてこの世を去ったカポーティの孤独を表現する。自分の分身のような男を見殺しにして栄華を手に入れた男が自分自身の良心に復讐されるという内容だ。


ノンフィクション・ノベル『冷血』は二人の殺人犯ペリー・スミスとディック・ヒコックの人生を、事件に翻弄される住民、事件を追う刑事らの人生との交差を含めて一流のカメラマンがその作品で被写体の真実を切り取るように、瑞々しい筆致で描き出した奇跡のような作品である。この映画は、『冷血』が提示した重層的な人間模様をカポーティとペリーの関係に収斂させ、話を分かりやすくしているが、そのためにどうしても底の浅さが見えてしまう。『冷血』が描くディックを読む限り、例えば映画のようにもう一人の犯人であるディックに対して本物のカポーティが徹底的に冷淡だったとは信じられない。こうした例に端的に表れるように、映画はそのテーマを際立たせる目的で『冷血』の重層的な世界を解体してしまう。おそらく、『冷血』を読まずに『カポーティ』を観た人の何割かは、もやもやとした割り切れない思いを抱くのではないだろうか。それこそ割り切れない話だが、答えを得るためにはどうしたって『冷血』に戻らなければならないのだ。


カポーティを演じた役者、フィリップ・シーモア・ホフマンは素晴らしかった。彼はこの作品の製作責任者でもある。その演技はカンザスの風景とともにこの映画の存在理由足り得ている。たしかに、彼の、かすかな表情の変化でカポーティの心象を描き出す演技力には思わず引き込まれるものがある。素晴らしい。しかし。もう一度、8月のエントリーに書いたことを繰り返したくなった。

もし、あなたが『冷血』のファンだとして、この直前に僕が書いたフレーズを鵜呑みにして『トルーマン・カポーティ』を読もうと思うなら、その前に『ローカル・カラー/観察日記』(小田島雄志訳)所収のエッセイ『白昼の亡霊たち − 『冷血』の映画化(1967)』を読むべきだ。そこに書かれている『冷血』の後日談とカポーティの心の動きが空気を微動させるように伝わってきたのなら、あなたは『トルーマン・カポーティ』を手に取ろうと思うかも知れない。そして、場合によってはむしろもう『トルーマン・カポーティ』は読まなくていいと思うかも知れない。


この映画『カポーティ』はこれらカポーティ自身による作品とジョージ・プリンプトン著『トルーマン・カポーティ』が並ぶ列の一番最後に置かれるべき存在である。割り切って観れば、とても美しい映画ではある。


■『カポーティ』公式ページ
■カポーティ『冷血』の美しさ(2006年7月23日)
■トルーマン・カポーティ』を読むか、トルーマン・カポーティを読むか (2006年8月9日)