インターネットと初等教育

一昨日のエントリーで、bookscannerさんが書いた一連の記事に刺激を受けたことを枕にグーグルやインターネットと宿題という話題を書いたら、editechさん、bookscannerさん、rairakku6さんがそれぞれ実に印象的なコメントを残してくれました。さらにbookscannerさんのところで美崎薫さんやbookscannerさんとすごいやりとり(美崎さん、fuzzy2さん、しばらくうちでやっちゃってくだされ)をしていたfuzzy2さんまでいらしていただき、こんな風に展開していただきました。ブログの醍醐味です。

■宿題(『fuzzy Weblog@hatena』2006年10月11日)


fuzzy2さんの刺激で、昔書いたエッセイを思い出しました。この種の雑文はほとんど手元に残っていないのですが、これはネットに上げていた故に散逸しなかった一文です。1997年、僕がニューヨークに家族で暮らしていたときに当時の勤め先のサイト向けに書いたものです。今日は、それを再掲させていただきます。

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■インターネット教育のことなど

(前略)

前回にインターネットの話を書きましたけど、小学生になる私の子供が通っている公立小学校が送ってくる「学校便り」の中に「来年初めをめどにすべてのクラスのコンピュータがインターネットにつながります」というお知らせを見つけました。この学校の校区は裕福な親が多く住む豪邸街に広がっており、これは教育税が資産税であるニューヨークにとっては決定的な意味があります。お金持ちがいる地域ほど学校は富み、余裕のある教育を受けることができることになるからです。そして、この学校はその意味においてニューヨークのトップクラスの地位にあります。


 ですから、「進んだ学校はここまで来ている」と見ることも出来ますが、「裕福な学校ですら、ネットワークの整備はこの程度であり、他のほとんどの学校ではインターネットが装備されていない。教室までインターネットが入り込んでいる学校は少ない」という見方も出来るでしょう。1995年2月に実査を行った教育省の調査結果には「授業にインターネットを利用している学校」は全体の3%という数値がありますが、それ以降のインターネットの普及によって、この数字はどこまで上昇したでしょうか。


 私は個人的にはインターネットがあれば万事がうまく行くという説には懐疑的な者ですが、「小学校の授業にインターネットが馴染むか」という問いかけに対しては、結構うまくいくだろうなと感じている者ではあります。もちろんアメリカでは、ですよ。日本ではまったく話が違ってきます。


 というのは、私の子供たちの先生方の授業方法とインターネットの親和性を思わずにはおれないからです。子供らが通っている学校では、一定期間、学習の対象としてのテーマを定め(例えば「化石」「栄養」「花」「ネイティブ・アメリカン」「ピルグリム・ファーザーズ」などなど)、それをネタにして様々な教科が横断的に教授されるというスタイルの授業が行われています。「花」がテーマだから理科の授業ばかりかと思いきや、花の絵を描く時間があったり(図工)、花のお話や詩を読む時間(国語)が出てきたりするわけです。教育学の素養がない私は、アメリカの教室で行われているこういうスタイルの授業を何と呼ぶのか知りませんが、きっと何かの有名な理論に基づいているのでしょう。それはこの際どうでも良いのでして、ここで強調したいのは、こうした授業では、テーマに基づいて材料を集め、それらの情報を統合して最終的に生徒が自分ならではの表現を磨いていくことに重点が置かれており、その過程でWWWを検索していくのとよく似た手続きが採用されている事実です。いつも学校でやっている百科事典の検索の代わりにインターネットが利用されるのだと考えれば、この導入はとても自然で、ぴたりとはまるように思われます。


 私がインターネットを用いた教育がアメリカの教育者や子供たちに対してなし得る成果に対して懐疑的なのは「ぴたりとはまる」が度合いがあまりに過ぎるのではないかと思われるからです。つまり、これではまるで従来の教育の延長でしかないのではないだろうかという疑念があるわけです。はまるのが見事にはまるが、それが子供たちの学力を向上させるかと言えば、今までやってきたことをメディアを変えて繰り返すだけな訳ですから、うまくいけば既存の教授法や成果は強化されることになるとしても、だからと言ってインターネットでなければならない何かが加わる度合いは小さいでしょう。


 実際に子供を学ばせている日本人の親として間近に見る限り、アメリカの教育には我が国のそれに顕著な詰め込み主義や画一主義の弊害が小さく、個人の伸びる部分を伸ばす工夫には長けていますが、全体の平均点を押し上げ、偏差を小さくする仕掛けには心が砕かれていません。クラスの中だけでなく、地域や国全体のレベルで見ても、これは言えるのではないでしょうか。そこがアメリカの教育にとって大きな問題であるという私の理解に立てば、アメリカの教育にとって必要なのは「WWW」ではなく、日本風の「計算ドリル」だということになります。別に冗談を申し上げているわけではありません。そして、ついでに申し上げるならば、計算ドリルをアメリカの教育に取り入れるのが困難であるのと同様、WWWを活用する本格的な(余興としてではない)授業を日本の教室で実現するのも、これまた大変だろうなと、つい想像してしまうのです。
(1997年12月執筆 情報通信総合研究所ホームページ『InfoCom News Letter』)

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これを書いたのはニューヨークに住まって2年半を過ぎた時期。「アメリカでは」みたいな書き方を平気でしていますが、もう少し時間が経って、だんだんと「アメリカとひと言で言っても広うござんす」ということが分かってくると、こんなに脳天気に「アメリカでは」と言ったり、書いたりしなくなりました。


それはさておき、ここで書いた内容は今でもほとんど古びていないような気はしています。


明日から生まれて初めて仙台に行って来ます。2日ほど、逍遙亭も留守にいたします。