文芸誌

国立近代美術館で開催されていた若中展に行きそびれた。この種の催し物はまだ時間があると思うと、どうもいけない。


昨日、文芸雑誌に思わず“過去の遺物のような”という枕をつけてしまったのだけれど、別に僕は文芸誌を蔑む気持ちは微塵もない。出版社にとって文芸雑誌は、いわば光学機器メーカーにとってのかつてのカメラと同じで、儲けという意味では取り組む価値はないが、さりとて止めるわけにはいかない微妙な存在だと思う。ある意味、経営者の経営に対する姿勢を分かりやすく照らす鏡みたいなものとして存在している。お金にならずともキャノンは銀塩カメラを製造し、新潮社は『新潮』を、文藝春秋は『文藝』を出し続ける。


これらの取り組みは、経済原理を優先すれば合点がいかないという意味では、ITの世界のオープンソースと似たところがないではない。方やオープンソースは純粋に何かを作り上げる楽しさ、世の中に自分がコミットできる満足感、自らの腕試しなどの個人的な動機をその原動力として説明でき、方や文芸雑誌やカメラは企業ブランド戦略の面から語ることができる。何れにせよそこには個人の、または企業(を実際に動かす個人)の、社会に対する矜持がしっかりと見えていると僕は取る。この「社会に対してプライドを持って相対する、金銭ではなく」、という姿勢に倫理的な正しさを感じる心のありようは、ブログをやってますます補強されてきたような気がする。


この前、ここで書いたのだが、新しいWebメディアの可能性は世界中で生み出されているWeb上の情報を検索技術を活用して狩猟し、情報の意味づけを行う編集力と、それらの情報源との協同を生み出す技術的な可能性の洗練にあるのではないかと僕は考えている。そして『新潮』を作り出すような特定分野における豊富な知識と矜持は、新しい試みを生み出す原動力となるはずだと僕は思う。


とは言え、それはあくまで可能性の話。もしかしたら、という期待の話。現在の文芸誌を僕はほとんど読むことはない。自分にとって純文学に時間を費やす気持ちが落ちているからだ。芥川賞が決まるたびに文藝春秋をかかさず買っていたのは多和田葉子さんが受賞した92年ぐらいまで。比較的新しい芥川賞作家で好んで読むのは、辻原登(1990)、多和田葉子(1992)、保坂和志(1995)ぐらい。マーケティング的な意味合いとしての芥川賞はもう終わっているし、実質的な楽しみだった開高、大江、江藤、吉行らの選考委員の選評ももう読めない。作家の書くものに時間を使うんだったら、脳学者やコンサルタントの言葉を読みたいというのが目下の価値観。ちょっと気になるのは平野啓一郎さんかな。


ところで、明日より数日間、インターネット接続がままならない環境で休みをとります。しばらくこのブログも書き込みません。皆様、どうかよい週末をお過ごしになりますよう。