茂木健一郎さんの最強のエッセイ集

ここのところ、エントリーがあるたびに出かけては様々な感興を呼び起こされて帰ってくる『三上のブログ』。今朝、思い立って「はてな」の流儀にしたがいソーシャル・ブックマークを付けさせていただこうと即実行に移したら、あれよあれよという間に最近のエントリー4つにマークをつけてしまい、このままだと全部に付けなければ気が済まなくなりそうで、そこでやめてしまった。


今日は、僕にとってそんな風に世界のあちこちに心をとばす島になりつつある『三上のブログ』で教えていただいた一冊の本、茂木健一郎著『生きて死ぬ私』について、僕なりの感想を書かせていただこうと思う。三上さんの「茂木健一郎著『生きて死ぬ私』を読む」はご自身の研究テーマにたぐり寄せるかたちで、この著者の問題意識について深い共感を表明しているが、実際に読んでみて、なるほどなぁと思ってしまった。

http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060817/1155781720


「文庫本あとがき」によれば、この本は著者33才の時に刊行されたものである。ご本人の説明を繰り返すと、出版社が当初この本に託していたのは、気鋭の脳科学者による臨死体験の解説書。ところが、編集者の意に反して茂木さんは臨死の話も含んだエッセイ集である本書を二週間で書き上げて持ち込んでしまった。「五木寛之だったらこれでいいんですけどねえ」と頭を抱えた編集者氏は、しかし、タイトルも含めて内容を変えることなくこの本を世に送り出した。その顛末をあらためて「文庫本あとがき」に記すことで、茂木さんは当時の茂木さんの興味のありよう、社会的立場、気負い、編集者への感謝の気持ちなどなど、さまざまな状況を水が河床を流れるように自然に描き出す。文章における技巧の意味を問い直すような見事な一文だと思う。


そんな風に出来上がった本書は、出版社が望んでいた臨死体験解説よりも、それ以外のエッセイ風の文章が俄然光を放っている。臨死の話もそれ自体は面白いのだけれど、なるほどこれはお題を与えられた文章だなと、言われてみればそうだろうなと思える骨格を備えているのに対し、他の短文は茂木さんが世界と触れる瞬間を言葉で切り取った感触が濃厚に漂っており、この人でしか書けないであろう個性に充ち満ちている。茂木さんは「あとがき」を編集者の方のお情けもあってこの本が世に出たようなニュアンスで仕上げているが、おそらく徳間書店の編集者は、しっかりとこれらのエッセイの価値を読んだのだろうと思う。


彼のブログを読んでいても同じような想いにとらわれるのだけれど、茂木さんの軽い文章は、“ちょっと散歩に出ました”みたいな調子で始まり、どこに行くのかと思ったら、文体は軽みを携えたまま、あちこちで永遠のしっぽに触れながら進む。このエッセイ集はまさにそんな瞬間の連続で、この人の脳はいったいどのようにしてそうした命題を軽々と連れてくるのかと愕然とさせられる。


たとえば、「人類の歴史は天才たちが切り開いてきた」という何気ないひと言で始まる『宗教的天才』という一文は、アインシュタインゲーテワーグナービートルズなどといった“天才”を一筆書きで描きながら進んでいたかと思うと、突如、こんなフレーズで読者を驚愕の底に突き落とす。

ところで、誤解を恐れずに言えば、科学の天才も、芸術の天才も、それほど珍しいわけではない。むしろ、ある程度の天才を持つ人、業績を残す人は、科学の世界でも、芸術の世界でもかなりの数がいる。
一方、滅多に出ない天才がいる。それは、宗教の天才である。宗教的天才は、すべての天才の中で一番出にくい。そして、あらゆるジャンルの天才の中で、実は人類に最大の寄与をするのは、宗教的天才なのである。

船の上から「もの言わぬもの」の世界である渡嘉敷島と「言葉」に支えられている文明世界である沖縄本島をともに視界にとらえた経験から我々の社会のありように対する敬虔な思いを読者に呼び覚ます『もの言わぬものへの思い』、子供の頃、図鑑でしか見たことがなかった蝶をこの目で見た瞬間の感動を言葉にすることだけで忘れられない文章となっている『メスグロヒョウモンの日』など、何気ない一編ほど、言外に漂うものの濃厚な気配に心を洗われる。あなたの経験に照らして、あなたの感慨が浮かび上がる、そんな文章に数多く出会うことが出来る。人間に対するオプティミズムと叙情性、類い希なる知性といった要素が理想的に出会うとこういう文章が出来てくるのかと、思わず溜息が出る。


また、茂木さんの飾り気のない文章を読んでいると、美文で文を飾ることの意味を考え直したくなってしまう。小林秀雄賞を受賞した『脳と仮想』など後年の著作に比べると明らかに文章はあか抜けないのだが、表面的なレトリックに何の価値があるのかと思わず自問させる固有の強さを茂木さんの文章は備えている。


読みやすいという意味で、茂木さんの本を始めて読む方には迷わずこれを最初に勧めたい。読書好きの方には但し書き抜きでお勧めです。

*茂木さんが撮った写真の入った2刷も出たようです。(9月4日補記)